刀の神聖視と習俗と刀狩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 07:43 UTC 版)
刀は、神聖視されて神社の神体となったり信仰の対象ともなった。一般的な通念と違い、騎馬上で刀や槍を振るうことは無く、騎馬白兵戦は無かった。14世紀に一時騎馬での刀戦が行われたが、小型の日本馬の馬上では難しく馬も傷つきやすいので、すぐに馬から降りて戦うようになった。戦傷も矢疵がほとんどで、中心は矢戦での遠距離戦だった。首を取るための近接戦闘の場合に刀戦となり、これが日本の合戦で白兵戦中心だとのイメージとして伝わった。しかし、前線でもあくまで騎馬弓兵が中心で、刀は本来戦闘での主役ではなかった。だが、早くから武士にとって刀は武の象徴とされ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も、戦力や現実の使用を超えて名刀を集めていた。後述のように500万本もの刀が太平洋戦争後に存在したことは、刀が精神性を帯びたもので単なる武器で無かったことを表す。 そして16世紀には、近畿や関東で庶民にも15歳の成人祝いを「刀指」と呼んで脇差を帯びることが習俗となっていた。柳田國男の「日本農民史」によると、日向の椎葉村では「おとな百姓」の家は村の3分の1に上り、名字もあり帯刀する別の階級で、農業は他の「小百姓」に任せて、たえず戦争に参加し落ち武者狩りも行っていた。関東でも後北条氏の動員令では「侍(上層の農民)」でも「凡下((一般の農民)」でも弓、槍、鉄砲は自弁で、村の武装は参戦可能で当然としている。ルイス・フロイスは『日本史』で、文禄2年(1593年)の九州における豊臣政権による刀狩の記事で「日本では今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者がある年齢に達すると」大小の刀を帯刀し、刀と脇差と呼び重んじていて、取り上げられるのを悲しんだ、と記述している。また中世や近世で、農民の腰の指物は不可侵で、中世以後16世紀や17世紀の村の争いでも相手の脇差を奪うことは重大で犯罪とされた。中世以来、刀は農民にとって武装権とともに成人男性の人格と名誉の象徴であり、刀狩はそれを奪うということで大きな問題だった。
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