刀伊の入寇までの北東アジア情勢とは? わかりやすく解説

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刀伊の入寇までの北東アジア情勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 03:25 UTC 版)

刀伊の入寇」の記事における「刀伊の入寇までの北東アジア情勢」の解説

926年契丹によって渤海滅ぼされ、さらに985年には渤海遺民鴨緑江流域建てた定安国契丹聖宗滅ぼされた。当時東北部にいた靺鞨女真系の人々渤海共存共生関係にあり、豹皮などの産品渤海通じて宋などに輸出していた。10世紀前半契丹進出交易相手だった渤海消失したことで女真などが利用していた従来交易ルート大幅に縮小余儀なくされ、さらに991年には契丹鴨緑江流域に三柵を設置し女真から宋などの西方への交易ルート閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃活発化するのはこの頃からである。 1005年高麗初め女真による沿岸部からの海賊活動報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年北九州到達襲撃するようになったいわゆる刀伊の入寇」に至る女真系の人々活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体情勢変化によってもたらされたものと考えられる。 しかし、当時女真族一部高麗へ朝貢しており、女真族遠く日本近海海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族高麗朝貢しているとすれば高麗治下にあることになり、高麗取り締まり責任問われるべきであると主張した。また『小右記』でも海賊中に新羅人居た述べている。

※この「刀伊の入寇までの北東アジア情勢」の解説は、「刀伊の入寇」の解説の一部です。
「刀伊の入寇までの北東アジア情勢」を含む「刀伊の入寇」の記事については、「刀伊の入寇」の概要を参照ください。

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