内部の不和とLTTEとの対立
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「タミル・イーラム解放機構」の記事における「内部の不和とLTTEとの対立」の解説
一方で、指導者としてのスリ・サバラトナムはプラバカランのようなカリスマ性に欠け、LTTEが持っていたようなヴィジョンをTELOに占めすことができなかった。TELOは急速に成長したにも関わらず、LTTEのような強力なイデオロギーが浸透していなかったことから、結果として幹部の多くはただの暴れん坊または無法者と見なされがちであった。また、スリ・サバラトナムはインドの関与と支援に大きく依存しており、LTTEのように高度な近代兵器も入手していなかったので、その活動も効果を失いつつあった。このような状況に、多くのTELOメンバーがスリ・サバラトナムのリーダーシップに不満を抱き、不和を募らせていった。 1985年までにTELOの内部に数多くの派閥が生まれ、1986年4月には派閥指導者の1人であるダスが殺害までに派閥間対立が先鋭化した。これにより組織が分裂し、数十人のメンバーがTELOを去っていった。 この間、LTTEとの相違も大きくなっていた。 LTTEは、TELOの親インドの立場に不満を持っていたほか、TELOがLTTEほど活発でも成功を収めてもいないにもかかわらず、スリランカに住むタミル人からの寄付の分配において最大のシェアを持っていることに怒っていた。また、LTTE指導者のプラバカランは、インドがTELOを利用して自分を殺害しようとすることを恐れていた。 この対立は、1985年9月にジャフナで2人の著名タミル人政治家、M・アララサンダラムとV・ダルマリンガムが暗殺されたことで遂に顕在化した。TELOとLTTEは互いにこの暗殺は相手方によるものだとして非難合戦となった。LTTEは1986年2月にENLFから脱退し、同年4月29日にはTELOに対する全面攻撃を開始した。ジャフナの各所にあったTELOの根拠地は迫撃砲による砲撃を受けた。また、TELO幹部は、武装していようがいまいがおかまいなしにライフルで射殺された。目撃者によれば、LTTEの攻撃には一切の容赦はなかったとされ、降伏した者も武器を置いたとたんに射殺され、逃げようとした者は走り出したところを射殺された。また、LTTEは民間人に逃亡者を保護しないよう警告して回った。幹部のうち生き残ったのは、EPRLFやEROSなど他の武装集団に逃げ込むことができたごく一部の者だけであった。5月5日には、TELOのリーダーであったスリ・サバラトナムがLTTEのサタシヴァム・クシリュナクマー(通称キトゥ)に射殺された。400人以上の構成員が殺害され、TELOは事実上消滅した。 当時LTTEは、インドがイーラム闘争を自らに都合よく利用するためにTELOに潜入していた、と主張してその行動を正当化したが、1990年に虐殺を指揮・主導したキトゥはリーダーの暗殺は正当化されてもTELOの幹部らを殺害したのは誤りであったと認めた。 スリランカ内戦を受けてインド平和維持軍(IPKF)が派遣されたが、その際に何度かTELOを過激派組織として復活させ、LTTEへの報復を行わせることが試みられた。インド陸軍は元TELO構成員に武器を与えるなどして支援し、IPKFに反抗するLTTEを封じ込めるために利用した。しかし、TELOはLTTEから絶え間ない攻撃を受けて大きな犠牲者を出し、1987年9月の1回の攻撃だけで70人もの犠牲者を出した。IPKFが撤退すると再興組織はほぼ無力となり、構成員のほとんどは報復を恐れてLTTEに降伏した。以後、TELOは実体のある過激派組織として復活することはなかった。
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