内部の対話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/11 16:44 UTC 版)
「19世紀アメリカ合衆国の選挙運動」の記事における「内部の対話」の解説
政党は有権者と密に接触するために工夫された内部の対話の仕組みを創り上げた。郡毎に活動家のネットワークを作り、特定の地区で支持者となる可能性のある者を訪問した。特に選挙日前の数日間が重要だった。勿論これらの活動家は党大会に出席し、最終的に候補者を選出する者達で構成されていた。対面でのネットワーク作りによって双方向での上質の情報が交わされた。党指導者は即座にどの党員が好まれ、また嫌われているかを見出すことができた。 2つ目の対話手段は党機関紙の全国的なネットワークだった。週刊および日刊の新聞のほとんど全ては、20世紀初期まで党の機関紙だった。都市における高速印刷技術の発明と田園部における無料配達のお陰で、新聞は大幅に発行部数を増やした。1850年の国勢調査では、1,630の党機関紙があり(発効数は有権者1人当たり約1部)、「独立系」新聞は83紙に過ぎなかった。権威筋の論説は言うに及ばず、記事の一行ごとに党の思惑が入り、敵の「愚かさ」を暴露し、あらゆる問題での党の「勝利」をうたっていた。編集者は党の上級指導者であり、魅力有る郵便局長の職で報いられることも多かった。ホレス・グリーリー、ホワイトロー・リード、スカイラー・コルファクス、ウォレン・ハーディング、ジェイムズ・コックスといった一流編集者は、大統領あるいは副大統領候補にも指名された。1900年以後、ウィリアム・ランドルフ・ハーストやジョーゼフ・ピューリツァーなど都市型政治家で出版者であった者達は広告を通じて1,000人の読者あたり多くの金額という利益に繋がることを発見した。彼らは無党派となることで、敵対党や広告を読む急成長する数多い消費者を取り込むための基盤を広げたが、政治に対する関心は徐々に薄れていった。市民は感動を感じなくなり、政党への忠誠心とともにより多くの観衆を集めるようになっていたプロスポーツに関心を持つようになったので、政治に関するニュースが次第に減っていった。
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