六角堂の建設と日本美術院とは? わかりやすく解説

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六角堂の建設と日本美術院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 15:54 UTC 版)

六角堂 (北茨城市)」の記事における「六角堂の建設と日本美術院」の解説

1903年明治36年5月初旬天心画家飛田周山(とびた しゅうざん)とともに福島県石城郡平町現在のいわき市)にある景勝地草野海岸(後の新舞子ビーチ)を訪れたが、天心草野海岸を気に入らなかった。そして東京へ帰る方向になった時、茨城県多賀郡北中郷村(後の磯原町出身の周山は天心に、草野近く五浦という人里離れた景勝地があると紹介し五浦赴いた五浦では周山の親戚である鳥居塚敏之輔が案内した天心一目見て五浦気に入り即座に別荘とすることを決めた記録では同年7月に敏之輔の父と周山の父が購入した五浦土地922坪(3042m2)が、8月1日付で岡倉覚三天心本名名義となっている。そして同年五浦居宅構えている。五浦訪れた頃の天心美術学校騒動によって東京美術学校去り日本美術院創設し日本画新しい風吹かせているところであった1905年明治38年)、天心六角堂建設する天心六角堂に付けた名前「観瀾亭」は「瀾(大波)を観る亭(東屋あずまや)」という意味である。創建当時出窓や炉が存在したが、これらは後の改修失われた1905年明治38年)になると日本美術院経営難となり、1906年明治39年)には日本美術院五浦移した同年7月にはボストン美術館日本美術候補生としてラングドン・ウォーナー訪れ天心邸に滞在した同年11月には横山大観菱田春草木村武山下村観山家族連れて五浦移住した日本美術院移転により、天心らの教えを仰ごうと日本各地から画家訪れ五浦の地は活況呈した一方荒涼とした当時五浦移った日本美術院を、世間は「朦朧派(もうろうは)の没落」、「日本美術院都落ち」などと揶揄(やゆ)した。最初の頃こそ山海の自然を楽しみながらの園遊会観月会開催し名士多数訪れていたが、次第日本美術院苦境に立たされ、横山大観の安い五浦住みながら、を買う金もなく、餓死寸前だったと回想している。こうした厳しい環境ありながら第3回文展文部省美術展覧会、現日展)に出品され大観の『流燈』など日本近代美術史上に残る数々名作生み出した1907年明治40年4月4日には天心東京市下谷区現在の東京都台東区)から多賀郡大津町727番地の3(五浦)に本籍移している。1908年明治41年)になると、菱田春草横山大観相次いで東京へ戻り木村武山下村観山五浦留守にしがちとなった。このことから、日本美術院五浦の地で活動行ったのは、実質3年ほどだったと言われている。その後1913年大正2年)に天心没すると、日本美術院五浦時代終幕迎えた晩年天心世界を飛び回る忙しい中で五浦静養しその時は「五浦老人」などと自称しながら漁師如く毎日海へ出て釣り楽しんでいた。 天心親交のあったインド詩人ラビンドラナート・タゴール1916年大正5年8月五浦訪れ天心墓前彼の思想国境越えて多く若者受け継がれていることを報告し六角堂にて瞑想し天心五浦の海にまつわる詩を作っている。

※この「六角堂の建設と日本美術院」の解説は、「六角堂 (北茨城市)」の解説の一部です。
「六角堂の建設と日本美術院」を含む「六角堂 (北茨城市)」の記事については、「六角堂 (北茨城市)」の概要を参照ください。

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