六角堂の建設と日本美術院
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「六角堂 (北茨城市)」の記事における「六角堂の建設と日本美術院」の解説
1903年(明治36年)5月初旬、天心は画家の飛田周山(とびた しゅうざん)とともに福島県石城郡平町(現在のいわき市)にある景勝地・草野海岸(後の新舞子ビーチ)を訪れたが、天心は草野海岸を気に入らなかった。そして東京へ帰る方向になった時、茨城県多賀郡北中郷村(後の磯原町)出身の周山は天心に、草野の近くに五浦という人里離れた景勝地があると紹介し、五浦へ赴いた。五浦では周山の親戚である鳥居塚敏之輔が案内した。天心は一目見て五浦を気に入り、即座に別荘とすることを決めた。記録では同年7月に敏之輔の父と周山の父が購入した五浦の土地922坪(3042m2)が、8月1日付で岡倉覚三(天心の本名)名義となっている。そして同年、五浦に居宅を構えている。五浦を訪れた頃の天心は美術学校騒動によって東京美術学校を去り、日本美術院を創設して日本画に新しい風を吹かせているところであった。 1905年(明治38年)、天心は六角堂を建設する。天心が六角堂に付けた名前「観瀾亭」は「瀾(大波)を観る亭(東屋=あずまや)」という意味である。創建当時は出窓や炉が存在したが、これらは後の改修で失われた。 1905年(明治38年)になると日本美術院は経営難となり、1906年(明治39年)には日本美術院を五浦へ移した。同年7月にはボストン美術館の日本美術候補生としてラングドン・ウォーナーが訪れ、天心邸に滞在した。同年11月には横山大観・菱田春草・木村武山・下村観山が家族を連れて五浦へ移住した。 日本美術院移転により、天心らの教えを仰ごうと日本各地から画家が訪れ、五浦の地は活況を呈した一方、荒涼とした当時の五浦に移った日本美術院を、世間は「朦朧派(もうろうは)の没落」、「日本美術院の都落ち」などと揶揄(やゆ)した。最初の頃こそ山海の自然を楽しみながらの園遊会や観月会を開催し名士が多数訪れていたが、次第に日本美術院は苦境に立たされ、横山大観は魚の安い五浦に住みながら、魚を買う金もなく、餓死寸前だったと回想している。こうした厳しい環境にありながら、第3回文展(文部省美術展覧会、現日展)に出品された大観の『流燈』など日本の近代美術史上に残る数々の名作を生み出した。 1907年(明治40年)4月4日には天心が東京市下谷区(現在の東京都台東区)から多賀郡大津町727番地の3(五浦)に本籍を移している。1908年(明治41年)になると、菱田春草と横山大観が相次いで東京へ戻り、木村武山・下村観山も五浦を留守にしがちとなった。このことから、日本美術院が五浦の地で活動を行ったのは、実質3年ほどだったと言われている。その後1913年(大正2年)に天心が没すると、日本美術院の五浦時代は終幕を迎えた。晩年の天心は世界を飛び回る忙しい中で五浦で静養し、その時は「五浦老人」などと自称しながら漁師の如く毎日海へ出て釣りを楽しんでいた。 天心と親交のあったインドの詩人・ラビンドラナート・タゴールは1916年(大正5年)8月に五浦を訪れ、天心の墓前で彼の思想が国境を越えて多くの若者に受け継がれていることを報告し、六角堂にて瞑想し、天心と五浦の海にまつわる詩を作っている。
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