六呂瀬山古墳群とは? わかりやすく解説

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六呂瀬山古墳群

名称: 六呂瀬山古墳群
ふりがな ろくろせやまこふんぐん
種別 史跡
種別2:
都道府県 福井県
市区町村 坂井市
管理団体
指定年月日 1990.05.16(平成2.05.16)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 六呂瀬山古墳群は、奥越山地を貫流してきた九頭竜川が、まさに福井平野流れ出た右岸六呂瀬山頂に位置する。この付近標高五〇~二〇メートル丘陵上には、約一三〇基の古墳分布しており、丸岡古墳群総称されている。これに対し左岸丘陵上には、国史跡手繰ヶ城山古墳はじめとする松岡古墳群吉田郡松岡町所在)が分布しており、九頭竜川挾んで古墳群対峙した形をとっている。
 六呂瀬山古墳群は、丸岡古墳群東南端に位置し標高二〇メートル高所にあって前方後円墳二基と方墳二基からなる昭和五十三年福井県教育委員会が、昭和六十年には丸岡町教育委員会が、墳丘範囲確認調査実施しており、各古墳墳形規模明らかにされた。本古墳群の上立って西方をみると、九頭竜川形成した坂井平野挾んで日本海眺望でき、南に目を転ずる松岡古墳群を、また足羽川流域福井市街や足羽山などを眺めることができる。
 本古墳群は、いずれも丘陵屋根上に築造されているため、自然地形制約受けており、墳形は必ずしも整美なのであるとは言い難い一号墳は、墳丘主軸がほぼ南北にそろう前方後円墳で、後円部を北に、前方部を南におく。全長一四メートルで、北陸地方最大規模有する後円部の径は七八メートル・高さは一三メートル前方部長さ五二メートル・幅は五八メートル・高さは一一メートル測る墳丘二段築成で、葺石埴輪これまで円筒家形確認されている)を有している。後円部東部に、東西二七メートル南北一五メートル・高さ四・二メートル半円形張出がある。後円部頂上には、盗掘坑があって、この周辺から凝灰岩製の石棺破片採集されているので、内部主体石棺であろう推定されている。一号墳の築造年代は、墳形埴輪などからみて、四世紀末から五世紀初頭にかけての頃と考えられている。なお、後円部張出部の東方に、掘割隔てて東西一六メートル南北一四メートル・高さ二・二メートルの、不整形方形二号墳がある。一号墳の陪塚考えられるが、葺石埴輪はない。 
 三号墳は、墳丘主軸をほぼ東西方向そろえた前方後円墳で、後円部を西に、前方部を東におく。前方部の上面前端は、一号墳の後円部西裾にほとんど接しており、前方部前面がないという特異な形をしている。全長は、八五メートルで、後円部の径は四八メートル・高さは一一メートル前方部長さ三七メートル・幅は四八メートル・高さは九メートル測る墳丘二段築成で、葺石埴輪これまで円筒の他、家形短甲形、衣形、盾形などの形象埴輪採集されている)を有している。後円部北裾に、北に向かって東西一一メートル南北一一メートル・高さ一・一メートル張出がある。墳形埴輪からみて、三号墳の築造年代は、一号墳よりやや遅れる五世紀前葉考えられている。また、一号墳と同様に張出部の北方に、浅い掘割隔てて東西一三メートル南北一六メートル・高さ二・七メートル規模不整形方形四号墳が存在している。
 六呂瀬山古墳群は、その立地規模内容などから、対岸位置する手繰ヶ城山古墳とともに四世後葉から五世紀前葉にかけての福井平野における、広域首長であったとみられる。これらの古墳は、北陸地方古墳時代解明に欠くことのできぬものであり、古代における越国形成その発展を知る上で極めて貴重な資料となるものと考えられる。よってこれらを史跡指定して、その保存図ろうとするものである
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六呂瀬山古墳群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/25 15:09 UTC 版)

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六呂瀬山古墳群
六呂瀬山古墳群 1号墳

六呂瀬山古墳群(ろくろせやまこふんぐん)は、福井県坂井市にある古墳群である。平成2年(1990年)5月16日国の史跡に指定[1][2]

概要

上久米田地区から野中山王地区にかけての標高50~200mの丘陵斜面には総数130基に及ぶ前方後円墳円墳方墳が分布しており、「丸岡古墳群」と呼ばれている[3]。六呂瀬山古墳群は丸岡古墳群の一支群で、丸岡古墳群の東南端に位置し、標高200mの高所にあって、前方後円墳2基(1・3号墳)と方墳2基(2・4号墳)から成る[3]。 また九頭竜川を挾んだ向かいの丘陵上には、手繰ヶ城山古墳をはじめとする国史跡松岡古墳群が分布している。

六呂瀬山古墳群は、その立地・規模・内容などから、対岸に位置する手繰ヶ城山古墳とともに、4世紀後葉から5世紀前葉にかけての福井平野における、広域首長墓であったとみられる。これらの古墳は、北陸地方古墳時代の解明に欠くことのできぬものであり、古代における越国の形成とその発展を知る上で、極めて貴重な資料となるものと考えられる[1]

古墳

本古墳群は、いずれも丘陵尾根上に築造されているため、自然地形の制約を受けており、墳形は必ずしも整美なものであるとは言い難い。

1号墳は、墳丘主軸がほぼ南北にそろう前方後円墳で、前方部を南に向ける。全長は140mで、北陸地方最大の規模を有する。後円部の径は78m・高さは13m、前方部の長さは52m・幅は58m・高さは11mを測る[1]。墳丘は2段築成で、葺石埴輪(円筒・家形)を有している。後円部東部に、東西27m・南北15m・高さ4.2メートルの半円形の張出がある。後円部頂上には、盗掘坑があって、この周辺から凝灰岩製の石棺破片が採集されているので、内部主体は石棺であろうと推定されている。1号墳の築造年代は、墳形・埴輪などからみて、4世紀末から5世紀初頭にかけての頃と考えられている[1]

2号墳は、1号墳の後円部張出部の東方に、掘割を隔てて存在する古墳で、1号墳の陪塚と考えられる。不整形な方形をしており、東西16m・南北14m・高さ2.2mを測る。葺石と埴輪はない[1]。 

3号墳は、墳丘主軸をほぼ東西方向にそろえた前方後円墳で、前方部を東に向ける。前方部の上面前端は、1号墳の後円部西裾にほとんど接しており、前方部前面がないという特異な形をしている。全長は、85mで、後円部の径は48m・高さは11m、前方部の長さは37m・幅は48m・高さは9mを測る[1]。墳丘は2段築成で、葺石と埴輪(円筒・家形・短甲形・衣蓋形・盾形)を有している。後円部北裾に、北に向かって東西11m・南北11m・高さ1.1mの張出がある。墳形や埴輪からみて、3号墳の築造年代は、1号墳よりやや遅れる5世紀前葉と考えられている[1]

4号墳は、2号墳の後円部張出部の北方に、浅い掘割を隔てて存在する古墳で、3号墳の陪塚と考えられる。不整形な方形をしており、東西13m・南北16m・高さ2.7mを測る[1]。 

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 六呂瀬山古墳群 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  2. ^ 六呂瀬山古墳群 - 文化遺産オンライン(文化庁
  3. ^ a b 「日本古墳大辞典」613頁

関連項目

座標: 北緯36度07分02.9秒 東経136度18分54.8秒 / 北緯36.117472度 東経136.315222度 / 36.117472; 136.315222



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