松岡古墳群
手繰ヶ城山古墳
石舟山古墳
鳥越山古墳
二本松山古墳
名称: | 松岡古墳群 手繰ヶ城山古墳 石舟山古墳 鳥越山古墳 二本松山古墳 |
ふりがな: | まつおかこふんぐん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 福井県 |
市区町村: | 吉田郡永平寺町 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1977.12.05(昭和52.12.05) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | 平成17.07.14 |
解説文: | S51-6-014[[手繰ヶ城山]たぐりがじょうやま]古墳.txt: 越前五山の一、吉野岳から北にのびた尾根の頂に所在する。標高160メートルという高所であり、眼下に九頭竜川が流れ西に越前平野を一望しうる景勝の地に築かれている。 本古墳は急峻な尾根を巧みに利用していることもあって、前方後方墳とも前方後円墳とも決しがたい状況にあるが前者の可能性がつよい。墳丘は全長128.4メートル、後方部の一辺78メートル、同高さ19.7メートル、前方部長さ50.4メートル同幅56.5メートル、同高さ15.2メートルを測り、北東に向いている。墳丘の裾には幅2メートルの平坦面が墳丘を一周しており、くびれ部に近い所に一種の造出し風の突出部があり、さらに先に低い封土が見られる。墳丘は2段築成で、傾斜面には河原石の葺石が、また段築平坦面や墳丘頂では円筒埴輪、朝顔形埴輪が立てられている。本墳は、前方部がバチ状に極端にひろがる特異な形態をもっており、その形態には注目される点が多い。石室などの埋葬施設が未調査のため詳細は決しがたいものがあるが、墳丘の形態、立地、埴輪などの在り方からみて4世紀末葉から5世紀初頭に位置づけられる古墳としてきわめて重要なものであり、またその規模も北陸地方屈指の巨墳として注目されるものといえるであろう。 |
松岡古墳群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/22 16:01 UTC 版)

松岡古墳群(まつおかこふんぐん)は、福井県吉田郡永平寺町にある古墳群である。国の史跡に指定された4古墳を指すことが多いが、近接している史跡でない古墳を含める場合もある[1]。
九頭竜川の南側、福井平野の東端に位置する尾根上に分布する。前方後円墳4基と陪塚3基からなり、九頭竜川の水利権を押え流域各地区の首長の上に立った「越の国の王」ともいうべき大首長の墓と考えられる[2]。
1977年12月5日に手繰ヶ城山古墳が国の史跡に指定され、2005年7月14日に他の3基を追加指定した上で登録名称が「松岡古墳群」に変更された[3]。
九頭竜川を挟んだ向かいの丘陵上には、国史跡六呂瀬山古墳群が分布している。
古墳 (国の史跡)
手繰ヶ城山古墳
全長約129mの前方後円墳で松岡古墳群中で最大規模[2]。くびれ部付近に造出状の遺構があり、その先端に陪塚の方墳が位置する。墳丘は2段築成で、河原石を用いた葺石が存在する。墳頂部と中段平坦部には円筒・朝顔形埴輪が巡っている[4]。4世紀中葉頃に築造されたものと考えられる[2]。
鳥越山古墳
5世紀中葉頃に作られた前方後円墳で地山削り出しで作られた全長53.7mである。後円部頂およびくびれ部より埴輪が出土している。舟形石棺直葬墓と竪穴系横穴式石室が見つかっている。石釧・砥石・馬具・鉄製品・土器などが出土している。[2]。
石舟山古墳
全長79.1mの2段築成された前方後円墳[2]、前方部先端に陪塚の方墳を有する。埴輪が巡らされている。盗掘を受けたとみられ、副葬品は見つからず、墳丘主軸平行に縄掛突起の付く舟形石棺の棺身のみが残る。[5]。築造年代は5世紀中葉頃と考えられる[2]。
二本松山古墳
5世紀後葉頃に作られたとみられる全長89mの二段築成の前方後円墳で、前方部の東側に陪塚を有する。明治13年と同39年の調査では、舟形石棺とその副葬品として銅鏡・冠・管玉・鉄剣・鉄刀・刀装具などが発掘されている。埴輪が外側に見つかっている[2]。
古墳 (国の史跡でないもの)
春日山古墳
福井県の史跡。
乃木山古墳
脚注
- ^ 松岡古墳群案内図 (永平寺町教育委員会設置)
- ^ a b c d e f g 福井県の文化財 文化財詳細
- ^ 松岡古墳群 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 「日本古墳大辞典」386頁
- ^ 「日本古墳大辞典」47頁
関連項目
座標: 北緯36度05分35.0秒 東経136度18分53.2秒 / 北緯36.093056度 東経136.314778度
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