元の内乱と外征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
ナヤン・カダアンの乱 1287年(弘安10年・至元24年)、遼陽行省を中心にクビライ政権の支柱の一つである東方三王家の首班・ナヤン(乃顔)が反乱を起こした。 このナヤンの反乱に関しては、クビライの日本侵攻計画によって、東方三王家の領民にまで造船などの出兵準備で動員がなされ大きな負担となっていたこと、さらにこの日本出兵準備によりクビライの中央権力が東方三王家の支配領域に深く介入したことへの反発があったとも考えられる。 クビライの親征によりナヤンの反乱は一旦鎮圧され、東方三王家の当主たちは軒並み異動されたが、今度はこの戦後処理に不満を持ったカチウン家の王族・カダアン(哈丹)が蜂起。1290年代にはカダアン軍が高麗に侵入し、いくつかの城塞を占拠し、一部は高麗の首都・開城より南の忠州にまで侵入した。カダアンら反乱軍も元からの援軍もあって鎮圧されたが、ナヤンの反乱の時には、クビライに敵対する中央アジアのカイドゥ(海都)もカラコルムを目指して進撃しており、1287年から1291年にかけて、元の東部全域から北部、また高麗内外では騒乱が続いた。 陳朝大越国侵攻 また、モンゴル帝国第4代皇帝・モンケ(蒙哥)の時代に服属していたベトナム北部の陳朝大越国でも、元によるベトナム南部のチャンパ王国侵攻に対しての過剰な物資徴発に抗議して太上皇・陳聖宗が中心となって反乱を起こした。これに対してクビライは、軍船500艘、92,000の兵(元軍7万、新附軍1千、雲南軍6千、黎兵(海南島の黎族兵)1万5千)を派遣した。両軍激しい消耗戦となり、最後に元軍は雲南へ撤退中に襲撃を受けて壊滅的な損害を受けている(白藤江の戦い)。 これらの内乱、南方での軍事的な失敗などもあって日本侵攻計画は当分の間は浮上しなかった。クビライはナヤン(乃顔)の反乱を境に東南アジア・インド洋方面への軍事的政策を、経済・通商を重視した和平路線へ転換したとも言われており、陳朝大越国やチャンパ王国、また1290年代に侵攻があったジャワ島のマジャパヒト王国でも交戦後ほどなくして服属関係の修復や朝貢関係の再締結の使節が交わされている。これらの戦役後も中国沿岸部から東南アジア方面への商船の往来は活発化し、クビライ治世末期には南方への元からの軍事的脅威はほぼ解消した。
※この「元の内乱と外征」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「元の内乱と外征」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。
- 元の内乱と外征のページへのリンク