元の北走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:08 UTC 版)
1348年、浙江の方国珍が海上で反乱を起こしたのを初めとし、全国に次々と反乱が起き、1351年には賈魯による黄河の改修工事をきっかけに白蓮教徒の紅巾党が蜂起した。1354年には、大規模な討伐軍を率いたトクトが強大な軍事力をもったことを恐れたトゴン・テムルによる逆クーデターで更迭、殺害されるが、これは皇帝の権力回復と引き換えに軍閥に支えられていた元の軍事力を大幅に弱めることとなった。やがて、紅巾党の中から現れた朱元璋が他の反乱者たちをことごとく倒して華南を統一し、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。 朱元璋の軍は、即位するや大規模な北伐を開始して元の都・大都に迫った。ここに至ってモンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368年にトゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した。一般的な中国史の叙述では、トゴン・テムルの北走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルのモンゴル皇帝政権は以後もモンゴル高原で存続した。したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は北元と呼んでそれまでの元と区別するのが普通である。だが、トゴン・テムルの2子であるアユルシリダラとトグス・テムルが相次いで皇帝の地位を継ぐ(明は当然、その即位を認めず韃靼という別称を用いた)が、1388年にトグス・テムルが殺害されクビライ以来の直系の王統は断絶する。 この過程を単純に漢民族の勝利・モンゴル民族の敗走という観点で捉えることには問題がある。まず、華北では先の黄河の改修などによって災害の軽減が図られたことによって、元朝の求心力がむしろ一時的に高まった時期があったことである(朱元璋がまず華南平定に力を注いだのはこうした背景がある)。また、漢民族の官吏の中には前述の賈魯をはじめとして元朝に忠義を尽くして明軍ら反乱勢力と戦って戦死したものも多く、1367年に明軍に捕らえられた戸部尚書の張昶は朱元璋の降伏勧告に対して「身は江南にあっても、心は朔北に思う」と書き残して処刑場に向かったといわれている。
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