個々の表現者の責任不在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 00:01 UTC 版)
「表現の自主規制」の記事における「個々の表現者の責任不在」の解説
欧米であれば文化的経緯によりマスコミの規制ではなく、著者など個々の表現者の責任における自律が一般的であるのに対し、日本の場合、個々の表現者の責任よりも、マスコミの直接責任が問われることが多いことから、マスコミが自主基準をもって規制を行うのが一般的である。これは戦後、民主化された日本において現実にマスコミに対する直接の法的な表現規制の動きが表面化したことが少なからずあったことによる。日本のマスコミは、表現の自由が保証されている諸国の中で特異な存在ともなっている。これを好ましくないとする立場からは、マスコミの「事なかれ主義」と批判されることも少なくはないのであるが、特に1965年の「博多駅テレビフィルム提出命令事件」において日本の最高裁判所は「利益衡量」基準(表現を認めた場合と規制した場合とのそれぞれの社会的利益を比較衡量して判断するもの)により判決を下し、以降の裁判でも「利益衡量」基準が用い続けられており、従って日本のマスコミの場合、その表現が他の人権などと衝突して法廷闘争に至ると勝訴の見込みはまずないことから、表現者よりもマスコミによる規制のほうが定着している。 しかし近年のインターネットの普及により、誰でも自由に世界に広く情報発信できるようになったことなどから、日本の、個々の表現者の責任不在、すなわち「個人の言いたい放題」が、日本国内、国外のどちらからも問題視されるようになり、「日本人個人の人権意識」、すなわち本当の意味での戦後日本の表現の自由の大衆定着程度が問われるようになってきている。 2015年現在、例えば何かの少年事件が発生すると、従来の日本のマスコミでは「絶対の秘密」である少年(加害者)の個人名や住所などが、インターネット上でどんどん拡散、無論、日本でもこれは「何人であっても不法行為」であり、発信者は全員が全て処罰対象であるが、「また聞き」で急速に拡散してしまうことなどから、司法当局が発信者全員を検挙することはできず、結果、「ネット私刑(ネットリンチ)」などと呼ばれる深刻な事態を招くようにもなり、投稿サイトなどを中心として、従来のマスコミとほぼ同じ基準での厳しい「管理者による自主規制」がかけられ、管理者などによって問題があると判断された投稿文や画像などが一方的に削除されるようになっている。 欧米では管理者はよほどのこと(明白かつ現在の危険)がない限り関与せず、被害者からの法的根拠を示した請求がされるまで削除しない、また発信者に直接、被害者から損害賠償請求などがされるのとは対照的であり、従来、限られたマスコミだけの問題であった、曖昧で難しい日本の「利益衡量」基準が、各個人の日常問題、すなわち従来問題である、あってはならないとされてきた「公権力による表現規制」よりもはるかに問題である「関係のない第三者私人による表現規制」ともなっている。
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