修験道の発展とは? わかりやすく解説

修験道の発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 09:32 UTC 版)

吉野」の記事における「修験道の発展」の解説

大峯修験道平安時代前期再興され以来中世にかけて大きく発展する。特に「当山派」と「本山派」の2つの派が互いに競い修験隆盛させた。 当山派 - 真言宗系。醍醐寺三宝院聖宝開祖とする。先に述べたように、聖宝参詣路を整備しお堂を建て、如意輪観音多聞天金剛蔵王菩薩安置したという。また小篠(おざさ) に伽藍建立し鳥住吉野郡下市町)に鳳閣寺建てたと伝わる。当山派では、奥駆道は逆峯吉野大峯熊野)を通る。 本山派 - 天台宗系。園城寺三井寺聖護院円珍開祖とする。1090年寛治4年)の白河法皇熊野御幸先達つとめた聖護院増誉僧正が、その功を認められ熊野三山検校職に補されてから、聖護院熊野根拠にした山伏傘下集めた。のちに勢力金峯山まで及び、役小角正当性をもって任じ本山派称した本山派では奥駆道は順峯(熊野大峯吉野)を通る。 大峯修験道では、蔵王権現信仰根本であったが、地主神金峯神社吉野水分神社吉野山神社三式内社に対す信仰厚く神仏習合が行われていた。また「山上一体山下三体蔵王」といわれ、山上に一体、山下三体蔵王権現祀られていた。衆徒は春夏には山上上がり社堂を守護し、冬は吉野山下って庵を結んだ。『金峯山古今雑記によれば1534年天文3年)に一向衆徒の焼き討ちにあうまで、山上にあっては山上蔵王堂の他に三六坊があったという。また山下にも大小多数100超える院坊があったとされる。これらは時代によって多少増減はあるが、当時興隆ぶりを伝えている。 この大峯修験道支えたのは、全国信者たちで、彼らはそれぞれ講を組織し夏季には先達率いられ山上へと登った。現在でも金峯山寺行われている花供懺法会式にも各地(東は関東から西は中国地方四国)から多く修験者たちが集まり信仰支えた。また11世紀頃から、有力社寺田地寄進する動きが活発となり、金峯山寺大峯山周辺以外にも多数寺領有することになる(詳しく荘園 (日本)または寄進地系荘園参照)。 古代から中世にかけて寺社では、僧兵抱えていたが、金峯山寺でも同様に吉野大衆と呼ばれる僧兵抱えている。山法師延暦寺)、奈良法師興福寺)ほどの勢力ではなかったが、史上時折登場している。古いところで1028年長元元年)に、大和藤原保昌圧政訴えて上洛している(日本紀略左経記)。吉野大衆は事が有れば勝手神社御輿担いで示威行動をもって都に強訴のために出向いた。また他の寺社同様に領地的な勢力拡大する中で、軍事組織としても機能して行くことになる。

※この「修験道の発展」の解説は、「吉野」の解説の一部です。
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