修験道の発展
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大峯修験道は平安時代前期に再興されて以来、中世にかけて大きく発展する。特に「当山派」と「本山派」の2つの派が互いに競い修験を隆盛させた。 当山派 - 真言宗系。醍醐寺三宝院の聖宝を開祖とする。先に述べたように、聖宝は参詣路を整備し、お堂を建て、如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩を安置したという。また小篠(おざさ) に伽藍を建立し、鳥住(吉野郡下市町)に鳳閣寺を建てたと伝わる。当山派では、奥駆道は逆峯(吉野→大峯→熊野)を通る。 本山派 - 天台宗系。園城寺(三井寺)聖護院の円珍を開祖とする。1090年(寛治4年)の白河法皇の熊野御幸の先達をつとめた聖護院の増誉僧正が、その功を認められ、熊野三山の検校職に補されてから、聖護院は熊野を根拠にした山伏を傘下に集めた。のちに勢力は金峯山まで及び、役小角の正当性をもって任じ、本山派と称した。本山派では奥駆道は順峯(熊野→大峯→吉野)を通る。 大峯修験道では、蔵王権現の信仰が根本であったが、地主神の金峯神社、吉野水分神社、吉野山口神社の三式内社に対する信仰も厚く神仏習合が行われていた。また「山上一体山下三体の蔵王」といわれ、山上に一体、山下に三体の蔵王権現が祀られていた。衆徒は春夏には山上に上がり社堂を守護し、冬は吉野山に下って庵を結んだ。『金峯山古今雑記』によれば、1534年(天文3年)に一向衆徒の焼き討ちにあうまで、山上にあっては山上蔵王堂の他に三六坊があったという。また山下にも大小多数100を超える院坊があったとされる。これらは時代によって多少の増減はあるが、当時の興隆ぶりを伝えている。 この大峯修験道を支えたのは、全国の信者たちで、彼らはそれぞれ講を組織し、夏季には先達に率いられて山上へと登った。現在でも金峯山寺で行われている花供懺法会式にも各地(東は関東から西は中国地方・四国)から多くの修験者たちが集まり信仰を支えた。また11世紀頃から、有力社寺へ田地を寄進する動きが活発となり、金峯山寺も大峯山系周辺以外にも多数の寺領を有することになる(詳しくは荘園 (日本)または寄進地系荘園を参照)。 古代から中世にかけて寺社では、僧兵を抱えていたが、金峯山寺でも同様に吉野大衆と呼ばれる僧兵を抱えている。山法師(延暦寺)、奈良法師(興福寺)ほどの勢力ではなかったが、史上に時折登場している。古いところで1028年(長元元年)に、大和守藤原保昌の圧政を訴えて上洛している(日本紀略、左経記)。吉野大衆は事が有れば、勝手神社の御輿を担いで、示威行動をもって都に強訴のために出向いた。また他の寺社同様に領地的な勢力を拡大する中で、軍事組織としても機能して行くことになる。
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