保守強硬派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 01:25 UTC 版)
「ヴォルフガング・ショイブレ」の記事における「保守強硬派」の解説
ショイブレは、CDUの中でも保守派とみなされている。 1991年、統一ドイツの首都をボンからベルリンに戻すことが決められたが、その決定にはショイブレの国会演説が大きな役割を果たした。 ヨーロッパ大陸の中央に位置する神聖ローマ帝国の歴史に照らして、愛国主義は健全な国民意識であり、ヨーロッパの理念と対立するものではないと肯定的に捉えている。 エリート層に対しては、エリートとしての意識を持つことを主張している。 学校でのイスラム教の宗教教育には賛成しているが、宗教的シンボルとしてのスカーフ着用には「ヨーロッパの価値観にそぐわない」として反対している。 SPDのゲアハルト・シュレーダー政権が進めた国籍法改正に反対し、同化主義を主張して二重国籍制度に反対するキャンペーンを繰り広げた。 メルケル政権の内相時代には強硬な姿勢が指摘された。 内相時代は対テロ戦争を想定して国内の治安維持にドイツ連邦軍が出動出来るよう憲法改正を主張した。 テロ危険人物の収容施設設置や、国外でのテロリストに対する拷問により得られた情報の利用を提案し、野党のみならず大連立の相手であるSPDからも強い反対を受けた。 オンライン捜査を認める憲法改正も主張する。 ドイツ国内で開催された2006 FIFAワールドカップや第33回主要国首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)の際は、治安維持や反グローバリゼーション活動家対策のため、EU内のドイツ国境での入国審査を一時的に復活させた。このような姿勢は旧東ドイツの「シュタージ」のような監視国家体制に繋がると非難された。 2017年1月にヴェルト・アム・ゾンターク(ドイツ語版、英語版)のインタビューを受けて、2015年からのドイツの難民受け入れ政策について「私たち政治家は人間であり、私たちは誤りを犯した。しかし、人というものは少なくとも誤りから学ぶことができる。」と発言し、難民受け入れ政策が失敗であったとの認識を示した。
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