伝承と記録とは? わかりやすく解説

伝承と記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 23:36 UTC 版)

ガーナ王国」の記事における「伝承と記録」の解説

トンブクトゥに伝わるマフムード・カアティの『探求者歴史』の写本によると、ヒジュラ元年以前22代続く白人(この場合アラブを含む)王朝があり、その後22続いたという伝承収録されているが、同書16世紀作成されたものである11世紀コルドバ歴史家アブー・ウバイド・バクリー著書諸道諸国の書(英語版)』のガーナ王国に関する記載比較信頼できるとされている。これは、10世紀頃にサハラ越えて旅をした人々からの証言集めたのである。 バクリーは、ガーナ王国について、「イスラム教徒にとって異教国家であったが、彼の時代イスラム教の影響受け入れ始めた唯一の黒人国家である」としている。11世紀ごろのガーナ王国首都は al-ghaba すなわち「森」呼ばれた。王の住んでいる場所は、柵で仕切られ特徴的な円錐状の屋根をもつ小屋連なっていたという。バクリーはガーナ王国について次のように書いている。 王は、女性がつける装飾品を首や腕につけていた。また良質の綿でできたターバンくるまれた金の刺繍のされた帽子を(王冠として)かぶっていた。王は、臣民謁見し、臣民苦情調整し解決するときに使った小屋周りには、金の馬飾りをつけた10頭の馬がいた。彼の背後には、金で飾られた盾や剣を運ぶための奴隷たちがいた。王の権力は、彼の封臣でもある王の息子たち頭から金を編みこんだ高価な外套着せる力に基づいていた。王の周りには、大臣たちが座り、王の前には、都市統治者座った王宮ドアには、首輪に金や銀の玉飾りをつけた、血統すぐれた犬たちがおかれて、守られていた。王の謁見式はドラムを叩くことで人々知らされた。彼に従う異教徒(=臣民)たちは、這って王のかかとに近づき尊敬の印として、自ら「ほこり」を頭上撒き散らしたイスラム教徒は、あいさつの印として手を打ち鳴らした。 王が死ぬと、王の遺体埋葬された場所に大きな木小屋建てられた。その小屋には、王の食べ物飲み物捧げるために王が生前飲食使用した器が置かれた。食べ物飲み物捧げる人々は、墓の入り口安全に保つため、小屋マットや布を被せて土をそのうえにかけたので、自然地形の丘そっくりに見えたガーナ王国の王は、セネガル川上流バンブク (Bambuk) を支配していた。直接金鉱を掘るコミュニティ支配していたわけではないが、金鉱を掘るコミュニティとの接触独占的に支配していた。また1050年頃、アウダゴスト(英語版)を占領して支配し中継貿易利益をますます吸収していったが、その繁栄は、モロッコムラービト朝嫉視浴びることとなった

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