伊能忠敬(いのうただたか 1745ー1818)
上総(現在の千葉県)の人、江戸後期の地理学者・測量家、日本で最初の近代的測量による日本全図「大日本沿海実測全図」を作成。
伊能忠敬は延享 2年(1745)に上総国小関に生まれ、幼名を神保三治郎といった。18歳のときに下総国佐原、伊能家の婿養子になり伊能三郎右衛門を名乗った。伊能家の婿養子に入った忠敬は、酒造りなどの家業に精を出し、家運の挽回に努めた。持ち合わせた商才と勤勉さから、次第に家勢も上向きとなり、明和3年(1766)、天明3年(1783)などに相次いで起きた飢饉に際しては、窮民を救うことに心血を注ぎ、その結果、地頭から帯刀を許された。
49歳のときに家督を長男景敬に譲り隠居、翌年寛政7年(1795)に江戸深川黒江町に移り住んだ。翌年幕府天文方、高橋至時(当時33歳)に師事し、暦学、数学の勉学を始めた。
忠敬は黒江町の自宅では、象限儀による天体観測をし、北緯35度40分30秒を得た。これは、後に陸地測量部が測定した値より、わずか23秒大きかっただけである。また、当時浅草にあった天文台(暦局)との緯度差から子午線 1度の距離を得たが、より正確な子午線 1度の距離を求めたいとの欲望から蝦夷測量に出発したといわれる。江戸を出立したのは、実に55歳(寛政12年 1800)のことである。
その後、日本各地を昼は歩測や測縄と"わんからしん(小方位盤)"を利用した道線法や交会法で、夜は天文測量で位置を求め、これらをもとに地図化した。16年間の測量に従事した日数約3,800日、測量距離約44,000km、天文観測地点は1,200箇所にも及ぶ。その結果から編集されたのが、通称「伊能図」と呼ばれるもので、大図(1/36,000)214面、中図(1/216,000)8面、小図(1/432,000)3面である。当初の目的であった子午線1度の弧長はというと、28里7町12間(110.749m)という値を得ており、これは現在の値に比べ、おおよそ0.2%の誤差という正確さであった。当時、その結果を知った師の高橋至時は、測量結果には誤差の存在が考えられ、蘭書などの結果とも異なるとして評価しなかった。その後、フランスの天文学者ジェローム・ラランドの天文書のオランダ語訳である
「ラランデ暦書」を手にした至時は、地球が南北方向につぶれた扁球形であることを知り、同書の子午線1度の値と忠敬の実測値がほぼ一致していることで、忠敬の測量の正確さを認め喜び合ったという。
伊能忠敬は、文政元年(1818)73歳でこの世を去ったが、渋川景保などの手で作成が続けられ1821年に「大日本沿海実測全図」として幕府に上程され完成に至った。
伊能図(部分)
伊能忠敬は延享 2年(1745)に上総国小関に生まれ、幼名を神保三治郎といった。18歳のときに下総国佐原、伊能家の婿養子になり伊能三郎右衛門を名乗った。伊能家の婿養子に入った忠敬は、酒造りなどの家業に精を出し、家運の挽回に努めた。持ち合わせた商才と勤勉さから、次第に家勢も上向きとなり、明和3年(1766)、天明3年(1783)などに相次いで起きた飢饉に際しては、窮民を救うことに心血を注ぎ、その結果、地頭から帯刀を許された。
49歳のときに家督を長男景敬に譲り隠居、翌年寛政7年(1795)に江戸深川黒江町に移り住んだ。翌年幕府天文方、高橋至時(当時33歳)に師事し、暦学、数学の勉学を始めた。
忠敬は黒江町の自宅では、象限儀による天体観測をし、北緯35度40分30秒を得た。これは、後に陸地測量部が測定した値より、わずか23秒大きかっただけである。また、当時浅草にあった天文台(暦局)との緯度差から子午線 1度の距離を得たが、より正確な子午線 1度の距離を求めたいとの欲望から蝦夷測量に出発したといわれる。江戸を出立したのは、実に55歳(寛政12年 1800)のことである。
その後、日本各地を昼は歩測や測縄と"わんからしん(小方位盤)"を利用した道線法や交会法で、夜は天文測量で位置を求め、これらをもとに地図化した。16年間の測量に従事した日数約3,800日、測量距離約44,000km、天文観測地点は1,200箇所にも及ぶ。その結果から編集されたのが、通称「伊能図」と呼ばれるもので、大図(1/36,000)214面、中図(1/216,000)8面、小図(1/432,000)3面である。当初の目的であった子午線1度の弧長はというと、28里7町12間(110.749m)という値を得ており、これは現在の値に比べ、おおよそ0.2%の誤差という正確さであった。当時、その結果を知った師の高橋至時は、測量結果には誤差の存在が考えられ、蘭書などの結果とも異なるとして評価しなかった。その後、フランスの天文学者ジェローム・ラランドの天文書のオランダ語訳である
「ラランデ暦書」を手にした至時は、地球が南北方向につぶれた扁球形であることを知り、同書の子午線1度の値と忠敬の実測値がほぼ一致していることで、忠敬の測量の正確さを認め喜び合ったという。
伊能忠敬は、文政元年(1818)73歳でこの世を去ったが、渋川景保などの手で作成が続けられ1821年に「大日本沿海実測全図」として幕府に上程され完成に至った。
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