人々の非難・裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 07:01 UTC 版)
ペリクレス、アスパシア及びその仲間たちは影響力を持っていた一方で非難から逃れることは出来なかった。というのも、アテナイの民主政下では卓越した才能を持った者であっても絶対的な支配はできないからである。アスパシアがペリクレスと関係を持ち、政治的にもかなり影響力を持っていたことには様々な反響があった。アスパシアはサモス戦争直後の何年間かは特に支持が低かったとイェール大学の歴史学者ドナルド・ケーガンは考えている。前440年にサモス島でプリエネ(ミュカレの麓に位置するイオニアの古代都市)を巡る戦いが勃発した。戦局が悪化すると、ミレトスの人々はサモスとの訴訟を申し立てるためアテナイへとやって来た。アテナイ人たちが両者に停戦を求め、アテナイで仲裁裁判をするよう申し立てをしたが、サモス側はそれを拒否した。それを受けてペリクレスはサモスに軍隊を派遣する法令を可決した。しかしそれを実行するのは困難でサモスが敗北するまでアテナイの人々は多くの犠牲を強いられた。プルタルコスによると、アスパシアがミレトス出身なのでサモス戦争に責任を感じ、その様子を見たペリクレスがアスパシアに喜んで貰おうとしてサモスと戦うことを決め、サモスを攻撃したのだと人々は考えたようだ。 ペロポネソス戦争(前431年-前404年)勃発前にペリクレス、彼と最も親しい仲間たち、そしてアスパシアは一連の個人攻撃や法的非難を受けることになる。特にアスパシアは、ペリクレスの性的倒錯を満足させるためにアテナイの女性を堕落に導いていると非難された。プルタルコスによれば、アスパシアは不敬罪で喜劇詩人ヘルミッポスに起訴され裁判にかけられたという。おそらくこれらの非難はすべていわれのない中傷に過ぎなかったが、アテナイの主導者ペリクレスにとってはこの出来事そのものが痛手となった。ペリクレスが珍しく感情をあらわにして訴えたおかげでアスパシアは無罪になったがペリクレスの友人の一人であるフェイディアスは獄中死してしまった。また別の友人のアナクサゴラスは信教を理由にして民会(アテナイ人の集会)から非難を受けた。アスパシアの裁判と釈放は後からでっち上げられた出来事であり「この出来事の中で本当にアスパシアが言われた中傷、アスパシアにかけられた容疑、卑猥な冗談が架空の裁判という形に変化して伝えられた」との見解をケーガンは示している。ブリティッシュコロンビア大学古典科教授アンソニー・J・ポドレッキ(Anthony J. Podlecki)の主張によれば、プルタルコスあるいは彼にその情報を伝えた人が、とある喜劇の一場面を実話と勘違いした可能性が高い。たとえこの話が本当だと考えたところで、ペリクレスの助けの有無に関係なくアスパシアに危害が及ぶことは無かっただろうとケーガンは主張している。 『アカルナイの人々』という作品の中でアリストパネスはペロポネソス戦争の原因はアスパシアにあるとしている。アリストパネスの言い分によれば、ペリクレスの発布したメガラ布令というものがあり、メガラ商人はアテナイやその同盟市とは貿易してはいけないという内容であったのだが、この布令はアスパシアの経営する遊郭で働いていた娼婦たちがメガラ人に誘拐されたことに対する報復として出した布令だという。アリストパネスがスパルタとの間で戦争が起こったことに責任感を感じている人物としてアスパシアを描いたのは、その前にミレトスとサモスとの間で起こった出来事の記憶を反映させたからなのかもしれない 。またプルタルコスはエウポリスやクラティノスなど他の喜劇詩人たちのアスパシアを嘲笑するかのような論評を報告している。ポドレッキによるとサモス島のドゥーリスはアスパシアがサモス戦争もペロポネソス戦争も煽動したとの考えを示していたようである。 アスパシアは「当世版オムパレー」「デーイアネイラ」「ヘラ」「ヘレネー」などさまざまなレッテルを貼られていた。 ペリクレスと関係があったことに関してはさらに非難を受けたとアテナイオスが報告している。ペリクレス自身の息子クサンティッポスさえも政治的野望を抱いていたためか、父親の家庭事情に触れ、躊躇うことなく父親を非難した。
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