二三等車・三等車・三等郵便合造車・三等緩急合造車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/07 03:10 UTC 版)
「北海道炭礦鉄道の客車」の記事における「二三等車・三等車・三等郵便合造車・三等緩急合造車」の解説
さ1 - 6, 8 - 12, 16 - 18, 22 1880年から1892年にかけて、手宮工場で製造された三等車で、屋根はアーチ型である。定員は57人(冬季53人)。1911年の称号規程制定では、7925形(フコハ7925 - 7939)となった。廃車は、1920年(大正9年)から1925年(大正14年)に実施されたが、このうち4両は樺太庁鉄道に移り、フコハ1 - 4、さらに250形(フコハ250 - 253)となっている。 さ7, 19 - 21, 23, 38, 40 - 42, 47, 48, 51 - 60 7945形形式図 8065形形式図(7945形改造) 1887年から1899年にかけて、手宮工場で製造された三等車で、屋根はアーチ型である。定員は56人(冬季52人)。後に7925形となったグループとは、車内設備は同等であるが、側窓の数が異なり、7925形は12枚、7945形は8枚である。1911年の称号規程制定では、7945形(フコハ7945 - 7965)となったが、さ19 - 21, 23は末尾に付番されている。1916年に7964と7965の2両が三等郵便合造車に改造され、8065形(フコハユ8085, 8086)となっている。廃車は、7963が1914年(大正3年)であった他は、1922年から1925年にかけてである。 さ63 - 69 1902年から1904年にかけ、手宮工場で製造された三等車である。屋根はアーチ型である。従来のグループに比して車体が延長されており、その結果定員は62人(冬季58人)となった。1911年の称号規程制定では、7970形(フコハ7970 - 7976)となった。 さり13 - 15, 29, 39, 45, 46 1891年から1898年にかけて手宮工場で製造された三等緩急合造車で、屋根はアーチ型である。後位側3分の1が荷物室となっており、定員は36人(冬季32人)である。1911年の称号規程制定では、8420形(コハニ8420 - 8426)となった。 さゆ24 - 28, 62 1892年(明治25年)および1901年(明治34年)に手宮工場で製造された三等郵便合造車で、屋根はアーチ型である。郵便室には側廊下があり、通り抜けが可能な構造になっているのが特徴である。1911年の称号規程制定では、8050形(フコハユ8050 - 8055)となった。 さゆ61 1899年(明治32年)に手宮工場で製造された三等郵便合造車で、屋根はアーチ型である。さゆ24等のグループとは構造が大幅に異なり、郵便室は非貫通で、側面に荷扱い用の扉が設けられている。1911年の称号規程制定では、8060形(フコハユ8060)となった。廃車は1926年(大正15年)である。 にさ30 1893年(明治26年)9月に手宮工場で製造された二三等車である。屋根は二等室部分をモニター形、三等室部分をアーチ型とした特徴的な構造となっている。定員は二等16人(冬季13人)、三等26人(冬季22人)である。1911年の称号規程制定では、5960形(フコロハ5960)となった。1925年(大正14年)、夕張鉄道に譲渡されてコロハ1、1935年には二等廃止によりコハ1となり、1940年(昭和15年)に北炭夕張礦専用鉄道に貸し渡され、翌年譲渡された。 にさ31, 32 1893年及び1894年に手宮工場で製造された二三等車である。屋根は二等室部分をモニター型、三等室部分をアーチ型とした構造となっている。1911年の称号規程制定では、5965形(フコロハ5965, 5966)となった。1920年(大正9年)、2両とも樺太庁鉄道に移り、フコロハ6, 7となり、後に220形(フコロハ220, 221)に改番された。1928年には220が全室三等車に改造され、265形(フコロハ265)となった。その際、屋根はアーチ型となった。 にさ33, 34 1894年及び1895年に手宮工場で製造された二三等車である。屋根は二等室部分をモニター型、三等室部分をアーチ型とした構造となっている。本グループでは、にさ31のグループに比べて二等室が2人分小さくなり、その分三等室の定員が5人増加している。1911年の称号規程制定では、5965形(フコロハ5967, 5968)となった。1920年、2両とも樺太庁鉄道に移り、フコロハ4, 5となり、後に216形(フコロハ216, 217)に改番された。 にさ35, 36 1896年(明治29年)手宮工場製で、1905年に三等車から改造されたグループである。そのため、屋根はすべてアーチ型となっており、前歴は「さ1」のグループであると推定される。1911年の称号規程制定では、5970形(フコロハ5970, 5971)となったが、1912年11月には樺太庁鉄道に貸し渡されて、栄町(後の豊原) - 大泊間の開業に使用された。正式な移籍は1913年(大正2年)である。樺太庁鉄道では、フコロハ1, 2となり、後に1は各室の境にトイレと洗面所が設置されたため定員が減少し、後年の改番では210形(フコロハ210)、2は212形(フコロハ212)となった。 にさ37, 43, 44, 49, 50 1896年12月、1898年2月に手宮工場で製造された二三等車である。このグループは二等室が縮小されたため、二等室の定員が14人(冬季11人)、三等室の定員が38人(冬季34人)となっている。1911年の称号規程制定では、5975形(フコロハ5975 - 5979)となったが、1912年11月には5975が樺太庁鉄道に貸し渡されて、フコロハ3となり、さらに214形(フコロハ214)となった。同車は1923年3月に大改造が行われて屋根は全長にわたってモニター型とされ、定員も特等室20人(冬季16人)、並等室20人(冬季16人)と変わった。5978も1923年に樺太庁鉄道に移り、その後234形(フコロハ234)となっている。 にさ70 - 72 1903年(明治36年)に手宮工場(70, 71)および岩見沢工場(72)で製造された二三等車である。このグループでは二等室が再び拡大され、定員は二等室が17人(冬季14人)、三等室30人(冬季26人)となり、各室の車端にトイレが設けられている。1911年の称号規程制定では、5980形(フコロハ5980 - 5982)となった。その後、5981は夕張鉄道に移ってコロハ2、1935年に2等廃止によりコハ2となり、一時期北炭丸田礦専用鉄道に貸し渡されたが復帰し、1949年まで使用された。
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