事業の拡大と合併
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1910年4月に沈堕発電所の完成とともに大分町で電灯・電力供給を開始したのに続き、同年11月の発電所500キロワット増設によって大分町の周辺や大野郡三重町(現・豊後大野市)などでも供給を開始。その後も相次いで供給区域を拡大するとともに、1913年(大正2年)4月には沈堕発電所をさらに増設して総出力を1,500キロワットとした。供給拡大の結果、電灯数は1910年に1万灯、1913年には2万灯を超え、電力供給も1千馬力を超える水準となっている。1915年(大正4年)には大分川水系にて出力1,600キロワットの幸野発電所も運転を開始した。一方鉄道事業も順調で、1908年10月から1912年5月にかけて計9両の電車を逐次新造し輸送力の増強を続けた。 経営面では、1907年11月に100万円へ増資したのに続き、1915年7月にも増資を行い、資本金を200万円とした。収入面では供給事業収入が著しく伸長しており、豊州電気鉄道時代の1905年度には総収入の2割に過ぎなかった供給事業収入が、1913年度には7割近くとなっている。水力発電によるコスト削減と供給事業の拡大で豊後電気鉄道の経営状態は好転し、1910年から年率12パーセントの配当を行うまでになった。 豊後電気鉄道が供給事業を拡大していたころ、大分県内では大分水力電気という電力会社が設立され(1911年3月設立)、県内の小事業者を次々と統合し、豊後電気鉄道の供給区域を囲むように事業を展開していた。さらに1911年4月には、東京の実業家や日田水電の関係者らによって大分県を流れる筑後川水系などにおける電源開発を目的に九州水力電気(九水)が設立された。九州水力電気は1913年12月に女子畑発電所(出力1万2,000キロワット)を完成させるとともに、豊富な発電力を背景に積極的な事業統合を推進していく。大分県においても1915年3月に日田水電から事業を譲り受けた。 日田水電の統合に続いて九州水力電気は1915年9月、大分水力電気に役員を派遣し経営権を掌握した。こうして大分県において九州水力電気の勢力が拡大したことから、九州水力電気・大分水力電気・豊後電気鉄道の3社合併の機運が高まり、1915年12月25日、九州水力電気は大分水力電気・豊後電気鉄道の合併を株主総会で議決する。翌1916年(大正5年)3月28日に合併が成立し、両社は解散した。合併に伴い社長の長野善五郎は九州水力電気取締役へ転じた。
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