事業の拡大と褒章の受章
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明治35年(1902年)、販路の拡大を図るために、長崎で一風変わった広告手法を展開する。「にかぎり升(ます)」と記したトタン板を街のあちこちに掲出して、人々が興味や関心をもって話題にしはじめた頃に、「にかぎり升」の前に「足袋はつちやたび」もしくは「つちやたび」と付け足した(文献によっては、「足袋は」の文字列と「足袋に限る」の文字列が、その間に一定のスペースをあけて書かれたビラを掲出しておき、人々の関心が高まった頃に、そのスペースに「つちや」と付け足した、とするものもある)。こうした広告手法によって、つちやたびの長崎における知名度を上げることに成功した。 明治37年(1904年)4月9日、四男の九平が誕生する。長年の研究の結果、明治38年(1905年)に倉田式織底機を発明する。続いて、改良倉田式織底機および倉田式吉野織機を発明する。これらの発明によって足袋の大量生産が可能となった。 明治30年代末期から明治40年代初頭にかけて、三潴郡鳥飼村白山(現在の久留米市白山町)の4,025坪(およそ13,283平方メートル)の敷地を購入し、原料を統一するために織布工場を建設する。織布工場には、足袋工場および染色・漂白工場が併設され、また倉田式織底機などが装置された。 明治41年(1908年)の生産量は、243万足に上った。大正3年(1914年)7月3日、足袋の製造とその研究に関する功績が認められ、緑綬褒章が授与される。同年、つちやたび宣伝飛行大会を久留米練兵場において開催する。この大会には飛行家の坂本寿一が招かれている。大正5年(1916年)、大正天皇が陸軍特別大演習の統監のために福岡県を行幸した際に、雲平は福岡県庁で同天皇に拝謁する機会を得ている。 大正6年(1917年)3月15日、つちやたび合名会社を設立し、社長に就任する。同年6月、67歳で病気のため死去する。死去日については、『久留米市誌 下編』および『近代日本文化恩人と偉業』では6月16日、月星ゴムの社史では同月17日となっている。死去後まもなく、長男の金蔵が倉田雲平を襲名している。墓所は、久留米市寺町の遍照院にある。
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