事業の拡大と電気事業統合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 01:43 UTC 版)
2代目津電灯成立後、まず1911年4月、55万円の増資を決議した。次の増資は7年後の1918年(大正7年)11月のことで、100万円の増資を決議し、資本金を200万円としている。また川喜田四郎兵衛が取締役在任のまま1919年(大正8年)7月に死去しており、1921年初頭の段階では主たる経営陣は社長川喜田久太夫、専務葛輪豊次郎(元支配人)、取締役川北栄夫・小島惣右衛門・松本恒之助・川喜田四郎兵衛(先代の長男・1919年襲名)であった。社長の川喜田久太夫は前社長四郎兵衛の女婿にあたる人物で、東京日本橋大伝馬町にも出店する江戸時代より続く木綿商川喜田家の当主である。 事業についてはの変化では、まず都市ガスの供給開始が挙げられる。1912年(大正元年)10月15日、津電灯はガス部を設置し津市内にてガス供給を開始し、電気・ガス兼営となったのである。当初の需要家数は478戸で、灯火(ガス灯)としての利用が8割、熱源としての利用が2割であった。ガス工場は津市松之下に所在。工場には箕曲発電所を補助するための内燃力(ガス力)発電所も併設された(津第二発電所・出力240キロワット、1916年運転開始)。 1921年(大正10年)には既存区域から離れた南勢地方の志摩郡波切村(現・志摩市大王町波切)にも進出した。元々波切村では県議会議員の松井仙右衛門により電気事業の計画が進められ、1919年(大正8年)に認可を受けていたが、この話を聞いた津電灯の川喜田久太夫が自社で引き受けようと申し出てたのが南勢進出の端緒。1920年9月1日、資本金5万円にて津市南堀端に波切電気株式会社が設立されるが、津電灯では1921年4月、開業を待たず同社の事業を継承した。その後津電灯では年内にガス力発電所を完成させて波切村への供給を開始している。 波切村へと進出した1921年は、三重県下の主要事業者の統合が進展した年でもあった。当時の三重県知事山脇春樹の主唱による統合計画は津電灯・松阪電気・伊勢電気鉄道3社の合併という形で話がまとまり、1921年11月27日株主総会での合併議決、翌1922年(大正11年)2月2日逓信省の合併認可と手続きが進行。同年5月1日、3社の新設合併による新会社・三重合同電気株式会社(後の合同電気)が発足し、同日付で津電灯を含む旧会社3社は解散した。なお津電灯では合併議決と同日に147万5000円の増資を決議し、合併までに増資の登記を終えている。 三重合同電気設立決定後の1922年1月、津電灯が名賀郡種生村(現・伊賀市)を流れる川上川(木津川支流)にて建設していた川上発電所が運転を開始した。これにより、津電灯の水力発電所は箕曲発電所とあわせて2か所となっていた。
※この「事業の拡大と電気事業統合」の解説は、「津電灯」の解説の一部です。
「事業の拡大と電気事業統合」を含む「津電灯」の記事については、「津電灯」の概要を参照ください。
- 事業の拡大と電気事業統合のページへのリンク