事故とその原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 12:27 UTC 版)
英国欧州航空(British European Airways、略称・BEA)のチャーター機・BE609便は選手の一人がパスポートを忘れたためベオグラードを1時間遅れで出発した。チャーター便に割り当てられたレシプロ・プロペラ機のエアスピード アンバサダーは短・中距離用機材でブリテン島まで無着陸飛行する航続能力はなく、給油のためにミュンヘンに立ち寄った。給油後、2度離陸を試みるが速度が上がらず中止した。不安を感じ当時安全とされた後部座席に移る者もいたが、皮肉にもこれが犠牲者を増やす結果となった。午後3時4分、3度目の離陸を試みるが離陸速度に達せずオーバーランし、フェンスを突き破り300m離れた空き家に突っ込み炎上した。乗客のうち乳児一人は生存した選手であるハリー・グレッグが救出した。 西ドイツの調査委員会の報告では当初、翼に付着した氷で翼形が変わり、必要な揚力が得られなかったことが原因で、その確認を操縦士である事故当時36歳だった英空軍出身の機長ジェームズ・セイン(James Thain)が怠ったためとされた。セインは自身を信じて実験を行い西ドイツ当局に訴えたが、西ドイツは頑なに自分達の過失を認めなかった。当時の英国首相ハロルド・ウィルソンの発言によりマスコミが再び事故を取り上げ、68年イギリスの事故調査委員会の調査では、離陸前の写真、救出作業員の証言、関係者証言に基づく実験によって滑走路上のシャーベット状になった氷雪(スラッシュ)が原因とされた。この事故で得られた経験は、これ以降世界中の常識となった。事故後11年してセイン元機長の濡れ衣は晴れたが、事故後解雇されてから心臓発作により54歳で亡くなるまで故郷でひっそりと養鶏で暮らした。 西ドイツがセインに責任を負わせたことを頑なに撤回しなかったのは、翼が凍っていたならばセインの責任だが、空港の滑走路上の氷雪がシャーベット状になった氷雪(スラッシュ)が原因ならば雪を放置した空港即ち西ドイツの過失ということになるため、主任捜査官ハンス・ライケルが目撃者たちの証言等を握り潰していたからだった。その目撃者の内の一人は、事故直後に現場に駆けつけ、副操縦士を救出した男性だった。彼は「救出のために主翼へよじ登った際に氷はなかった」と証言していた。また、事故当時に空港にいた西ドイツの男性パイロットも目撃者の一人だった。
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