事故と余生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 01:27 UTC 版)
「XB-70 (航空機)」の記事における「事故と余生」の解説
1966年6月8日、エドワーズ空軍基地近辺でゼネラル・エレクトリック製エンジンを積んだ軍用機を集めて同社の宣伝用フィルムを撮影するための編隊飛行が行われた。XB-70の2号機を先頭に、F-104Nほか計5機がV字編隊を組むというものだった。だが撮影終了後主翼に異常接近したF-104が逆さまとなり、XB-70に上から接触、両垂直尾翼と左の主翼を破損させた。F-104は爆発してパイロットのジョセフ・ウォーカーは即死、2枚の垂直尾翼を失ったXB-70はコントロール不能となりフラットスピンに陥った。機長のアルヴィン・ホワイトは脱出カプセルに腕を挟まれ、ようやく腕を引き込んで射出されたが着地時にエアバッグが作動しないという最悪の状況に見舞われながらかろうじて生還した。しかし脱出に失敗した副操縦士カール・クロスは機体もろともモハーヴェ砂漠に墜落し死亡した。 事故調査委員会はF-104が異常接近した理由を編隊飛行に慣れていないウォーカーのミスとしているが、事故の一部始終が撮影されていながらもその結論は出ていない。飛行に参加していたパイロットは皆ベテランだったが、異なる飛行特性を持つ機体が編隊飛行した場合、同じ種類の機体の編隊飛行に比べ危険性が高まる。他の機体よりも軽量なF-104はXB-70の翼端ないし前縁から発生した渦に巻き込まれたのではないかという見解がある。 加えてXB-70の特異な形状が、編隊飛行時に必要とされる互いの位置関係の把握を困難にしたことも考えられる。事故当時T-38を飛ばしていたXB-70主任テストパイロットのジョー・コットン中佐は、ウォーカーはXB-70に対する自機の位置がわからなくなったので、単に近づいていって最終的にF-104のT字尾翼とXB-70の翼端とが接触したのではないか、と推測している。チャック・イェーガーも同様の意見を公にしている。もともとテストパイロットとしてチェイス機と距離を取って飛行するのが普通であったウォーカー自身に、大型機と密集編隊を組んで飛ぶ経験があまりなかったことも指摘されている。 その後、残されたXB-70の1号機はNASAに移管され、SST(超音速旅客機)におけるソニックブームの研究に供された。ここでの研究の結果、マッハ2で飛行した場合、高々度でも地上におけるソニックブームの影響は大きいものであることが判明し、SST開発が滞る一因となっている。またノースアメリカンはアメリカ連邦航空局によるSST計画にXB-70を元にした案で応募したものの、ボーイングやロッキードに敗れている(ボーイング2707も参照)。 1号機の総飛行回数・時間は83回・160時間16分、2号機は46回・92時間22分であった。 試験終了後の1969年、1号機はライト・パターソン空軍基地の空軍博物館に展示されることとなった。当初は屋外で大陸間弾道ミサイルなどと並べて展示してあったが、1988年より新設された屋内展示場内に納められている。 垂直尾翼を失い、フラットスピンに陥った2号機 脱出カプセル
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