主な親族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:09 UTC 版)
祖父は辛島鹽井の高弟で津奈木手永御惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた頼山陽に会っている。 父は幕末維新期に肥後で開明思想家として活躍した徳富一敬で、藩政改革に際し雑税免除の大減税令を発した人物である。他地域では一敬のおこなった「肥後の大減税」を目標に百姓一揆が起こっている。一敬は93歳の長寿をまっとうした。一敬は横井小楠の第一の門弟であり、坂本龍馬が小楠を訪ねた時にも同席し、その様子を書き留めている。父方の伯父に一義、高廉、昌龍、伯母にますも、はるがいる。 母久子は上益城郡杉堂の矢嶋家出身で、禁酒運動家として活躍した。久子は91歳まで生きている。久子の姉・順子(竹崎順子)は熊本女学校(現熊本フェイス学院高等学校)の設立者で熊本における女子教育の先駆者、妹のつせ子(津世子)は横井小楠の妻で、同志社大学の基礎をきずいた海老名みや子の母である。禁酒・廃娼を主張して婦人矯風会を設立した矢嶋楫子も久子の妹で、久子は楫子の矯風運動を支援している。久子たち姉妹の兄である矢嶋源助は小楠の第二の門弟であり、順子の夫である竹崎律次郎もまた小楠の門弟であった。姉妹の長姉である藤島茂登子は熊本藩士藤島昌和の妻で、富山県・千葉県の官選知事を務めた藤島正健の母である。 妻は静子(旧姓は倉園)。蘇峰は妻思いで知られ、講演など全国どこへ行くのにも彼女を同伴したといわれる。 子は、静子とのあいだに男子は太多雄、萬熊(万熊)、忠三郎、武雄、女子は逸子、孝子、久子、直子、盛子、鶴子がいる。鶴子は一時期蘇峰の弟蘆花の養女となった。 蘇峰の長男・太多雄は、弟の萬熊・武雄らと共に東京府立第一中学校卒業。1912年(明治45年)に海軍兵学校を卒業し(海兵40期)海軍士官となるが、1931年(昭和6年)9月9日、42歳で亡くなっている。最終階級は海軍中佐。 太多雄には3男2女がいたが、太多雄の死後は蘇峰が父親代わりとなり、太多雄の未亡人・美佐尾を援け、5人の孫の教育をした。 長女・静子は日本女子大学を卒業した後、当時海軍政務次官であった松山常次郎の長男・望と婚姻した。 長男の敬太郎は府立一中から海軍兵学校に進み海軍大尉で終戦を迎える。 次男の剛二郎は東京大学農学部に進み、戦後宮崎大学農学部教授となる。 三男の太三郎は陸軍幼年学校から陸軍航空士官学校に進み陸軍少尉で満州で終戦を迎える。 二女の久子はお茶の水女子大学を卒業後、1954年(昭和29年)に当時熊本大学専任講師であった法政大学名誉教授でカント学者の浜田義文と婚姻した。 弟は小説家の徳冨蘆花(詳細後述)。姉の初子は政治家の湯浅治郎の後妻となった。初子は、日本で初めて男女共学による教育を受けた女性で、叔母同様、禁酒・廃娼運動家として活動した。治郎と初子との間には昆虫学者の湯浅八郎らが生まれている。初子の上に、常子、光子、音羽の姉がおり、蘆花のほかに夭逝した弟・友喜がいた。 女性解放運動家の久布白落実は姪、日本組合基督教会の指導者海老名弾正は遠戚にあたる。
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