中部電力への継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 09:20 UTC 版)
太平洋戦争の敗戦後、酷使による故障や空襲による破壊によって電力施設は通常の六割程度にまで発電能力が減衰し、逆に制限されていた一般家庭への電力供給が再開されたことによる需要の急増で需給のバランスが崩壊。深刻な電力不足を招いた。当時電力行政を管轄していた商工省(経済産業省の前身)電力局は電源開発を早急に実施してこの問題を解決すべく水力発電計画を強力に推進した。日本発送電はこれに基づき1946年(昭和21年)1月より朝日ダムの調査を再開し、1949年(昭和24年)6月には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の承認を得て9月のGHQによる建設命令によって本格的な建設事業に着手した。 ところが日本発送電は戦時体制に協力した独占資本であるとして1948年(昭和23年)2月、過度経済力集中排除法の第二次指定企業に指定された。政府や日本発送電は従来の体制を維持すべく引き延ばしを図った。だがGHQは強硬に日本発送電の再編成を主張、当時政府の諮問機関「電気事業再編成委員会」の委員長が提出した「九地域分割案」を是とする方針を示し政府にこの履行を迫った。この「九地域分割案」を提案した委員長とは、飛騨川の電源開発事業に深く関与した旧・東邦電力社長の松永安左エ門であった。 この間朝日ダム建設は停滞を余儀無くされ、さらにGHQは「九地域分割案」が具現化されるまで日本発送電への一切の事業許可を行わないと通告した。これは政府の課題である「早期の電源開発推進」が瓦解する危険性をはらんでおり、これに屈した政府は1951年(昭和26年)1月に「電力事業再編成令」を公布。日本発送電は全国九電力会社に分割・民営化された。木曽川水系では木曽川筋を大同電力の流れを汲む関西電力が継承したが、飛騨川筋については東邦電力の流れを汲む中部電力と、日本電力の流れも汲んでいる関西電力の両社が水利権の所有を巡り対立。結果政府の裁定により旧・日本電力が保有していた飛騨川の発電施設は全て中部電力が保有することとなり、これにより飛騨川流域は一貫して中部電力が水利権を所有することになった。 これ以降飛騨川の電力開発をさらに促進するために中部電力は「飛騨川流域一貫開発計画」を作成。飛騨川の本・支流に多数のダム式発電所を建設して包蔵水力を最大限開発することを基本方針とした。そしてその第一弾として朝日ダムは秋神ダムと一対の計画として中部電力によって建設が進められたのである。
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