中部電力の成立過程
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「中部電力 (1930-1937)」の記事における「中部電力の成立過程」の解説
矢作川本流部、西加茂郡猿投村(現・豊田市)において、東邦電力系列の三河水力電気が建設していた越戸発電所(出力7,500 kW)が1929年(昭和4年)12月より運転を開始した。発電所完成に先立つ同年4月2日、東邦電力と岡崎電灯の間で、東邦電力が受電する越戸発電所の発生電力のうち4,600kWを岡崎電灯が受電する、という電力受給契約が成立する。加えて岡崎電灯が周波数を東邦電力と同じ60ヘルツに統一した上で最大10,000kWの電力を融通する、という電力融通契約も締結された。周波数変換工事は1929年春より順次行われ、越戸発電所からの送電開始(1930年3月)を挟んで1931年(昭和6年)春にかけて実施されることになる。この工事費は28万円であったが、周波数変更設備が不要となった東邦電力がその費用10万円を転用して工事費の一部を負担している。 このように東邦電力・岡崎電灯間の受電・電力融通契約が締結されるなど連系が深まり両社の関係が緊密化すると、再び三河地方における事業統一の機運が生じ、両社で統合への交渉が進行した。その中で、統合方法について単純に東邦電力が岡崎電灯を合併する、反対に東邦電力が豊橋区域を岡崎電灯へ譲渡する、といった方法も検討されたが、新会社「中部電力株式会社」を設立して東邦電力豊橋区域を統合し岡崎電灯を合併する、という中間的な方法を採ることに決まった。1930年1月に決定された合同電気(旧・三重合同電気)への東邦電力四日市・奈良両支店移管では東邦電力からの現物出資によるという方法が採られたが、当時岡崎電灯は資本金2300万円に対し885万円の未払込があり増資が不可能なため、これとは異なり新会社設立という手続きの採用となった。 その新会社・中部電力は1930年(昭和5年)2月15日、資本金650万円にて東京市麹町区丸ノ内(現・千代田区丸の内)に設立された。東邦電力から松永安左エ門・宮川竹馬らが役員に入っている。2日後の17日付で650万円の増資を決議し、19日付で登記上の本店を東京から岡崎市籠田町16番地へと移した。そして翌20日、中部電力は岡崎電灯との間に合併契約を締結した。合併条件は、存続会社の中部電力は資本金を2645万円増資して3945万円とし、新株を解散する岡崎電灯の株主に対して持株1株につき1.15株の割合で交付する、というもの。これらの操作により、新会社の株式を岡崎電灯側は52万9000株、東邦電力側は26万株持つことになる。株主総会における合併決議は、中部電力では3月10日、岡崎電灯では12日に実施された。また東邦電力から中部電力への豊橋営業所管内における電気事業一切の譲渡については、3月12日の東邦電力株主総会にて決議された。譲渡資産の金額は簿価に等しい906万2505円79銭である。 1930年3月28日、中部電力はさらに中部電力(多治見)との間で合併契約を締結、4月7日の株主総会にてその合併を決議した。この合併により中部電力は440万円増資して資本金を4385万円とし、新株を中部電力(多治見)の株主に対して持株1株につき2.2株の割合で交付することとなった。同社は先に触れたように岐阜県土岐郡多治見町(現・多治見市)の事業者で、土岐郡や可児郡・恵那郡を供給区域とし、岡崎電灯の傘下にあり合併当時は岡崎電灯の杉浦銀蔵が社長を兼ねていた。 中部電力・岡崎電灯合併の期日は契約上1930年7月1日付と定められていたが、主務官庁からの合併認可が下りたのは7月31日であった。同日には東邦電力豊橋営業所管内における事業の譲受け認可も下りている。合併認可が契約上の合併期日よりも遅れたため、岡崎電灯の合併と東邦電力豊橋営業所統合の実施は8月1日付となった。中部電力(多治見)についても8月23日付で合併認可があり、翌々日の25日、中部電力は岡崎電灯・中部電力(多治見)両社に関する合併報告総会を開催し、合併手続きを完了した。被合併会社は両社とも同日をもって解散している。報告総会では中部電力の新役員が決定され、社長に杉浦銀蔵、副社長に高石弁治、常務に杉浦英一がそれぞれ就任した。杉浦銀蔵は岡崎電灯社長、高石は同社副社長からの転任。杉浦英一は銀蔵の次男で、東邦電力豊橋営業所長から転じた。
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