上ヶ原工区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:11 UTC 版)
上ヶ原工区は、新大阪起点16K020Mから17K250Mまでの延長1,230メートルを掘削する工区である。大成建設が施工を担当した。大阪層群と呼ばれる洪積層を主に掘削する区間で、固結度の低い地盤に多量の地下水を含有し、しかもトンネルからの土被りの薄い地表に人家が密集しているという悪条件で、六甲トンネルの各工区の中でも難工事となった。坑口付近にも民家が密集していたため、坑口から300メートル程度離れた場所に延長145メートル、断面積20.5平方メートルの横坑を設けることになった。 1968年(昭和43年)11月17日に工事に着手し、横坑の実際の掘削は1969年(昭和44年)7月7日に開始された。最初の1か月ほどは順調に掘削が進行したが、途中で砂質シルト層が緩み始め、8月6日から9月23日までに計6回の土砂流出を起こした。そこで断面積を3.4平方メートルまで減らした補助横坑やさらに複数の調査坑を掘削した。最低限の作業が可能な3.4平方メートルの断面であれば安定した粘土層の中を掘進できたが、9.2平方メートルの断面に広げるとシルト層が現れて土砂の流出を起こした。水抜き工法を行ったものの効果は小さく、数十メートル進行するたびに流出が起きて、しばらく放置すると半月程度で再度掘進が可能になるという繰り返しであった。土砂流出のためにトンネル上部が空洞化してしまうため、モルタル注入を約1,000立方メートルに渡って実施した。水抜きボーリングや薬液注入などを施工して、1970年(昭和45年)1月頃にようやく本坑との交点に坑道が到達した。以降、本坑の導坑掘削を開始したが、相変わらず掘削不能となる坑道が多く、順調に掘削していたのは頂設導坑など一部であった。結果的に本坑を本格的に掘削開始できたのは、1970年(昭和45年)3月に入ってからであった。 本坑は、ルーフシールド工法やライナープレート工法などを検討したが、最終的に側壁導坑先進工法を採用することになった。覆工の巻厚は、地表部に家屋が存在しない区間では70センチメートル、存在する区間では90センチメートルとした。地質がシルトや粘土質で、盤ぶくれが発生する可能性があるとして、インバートコンクリートを全区間で施工することになった。 しかし実際に本坑の掘削にかかる段階になると、当初計画していた側壁導坑先進を実施することは湧水状況から不可能であると判断された。そこで本坑の中心から15メートル海側の位置に海側調査坑を先に掘削した。この調査坑は予想したほど湧水がなく、調査により本坑のスプリングライン付近に多量の水を含む帯水層があることが判明し、調査坑からウェルポイントを実施して揚水しながら本坑の側壁導坑を掘削した。さらにウェルポイントによる揚水の効果の関係から、本坑より山側にも山側調査坑を掘削してそこからもウェルポイントを実施し、本坑上部にも上部調査坑を設けてウェルポイントを実施した。これにより、まず海側の側壁導坑を推進し、続いて山側の側壁導坑を2段サイロット工法によって掘削した。ウェルポイントで水を抜いた後は、本坑の断面を掘削するのは予想以上に順調に進捗し、覆工やインバートコンクリートの打設まで進めることができた。 なお、新大阪方の坑口から横坑の本坑との交点までの間の地表に灌漑用水池があり、この部分については開削工法が実施された。また、甲陽工区の掘削が先に上ヶ原工区との工区境に到達しており、甲陽工区側から上ヶ原工区へ向けての迎え掘りが実施された。 上ヶ原工区の地表部は住宅密集地であり、土被りは20 - 25メートル程度であった。さらに横断道路にはガス管や水道管が埋設されており、中でも阪神上水の高圧給水管は直径1,500ミリメートルもある大きなものであった。そのため地表部の沈下には注意が必要であった。掘削中の地表観測を行い、掘削後すぐに仮巻コンクリートを実施して地山を固めて掘削するなどの対策を実施した。また覆工完了後に全区間に渡って裏込注入を実施した。こうした対策により地表沈下は最大5センチメートル程度に収まり、地表に大きな影響を出すことなく工事が完了した。 1971年(昭和46年)5月20日に上ヶ原工区は竣工した。工区の工費は21億8300万円であった。
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