上ロタリンギア公国
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953年、東フランク王オットー大帝は自らの弟であるブルーノをロタリンギア公に任命した。 959年にブルーノは公国を上下ロレーヌに分割し、その分割は965年のプルーノの死後固定された。「上」ロタリンギアは河川の上流、つまり内陸かつ南側に存在した。文献によると上ロレーヌは、当初モゼル公国と呼ばれ、その公はdux Mosellanorum(モゼル公)と呼ばれていた。 Lotharingia Superioris(上ロタリンギア)や、Lorraine(ロレーヌ)の語が公文書で使用され始めるのは15世紀前後のことである。ブルーノの代理人であり最初の公爵となったのはブルーノの姉妹であるヘトヴィヒの義理の息子フレデリク1世であった。 下ロレーヌは幾つかの小さな領邦に分裂し、「ロチエ公」の称号のみがブラバントによって保持されつつ存続した。モゼル公国がルネ・ダンジューのものとなった後、「ロレーヌ公国」の名が再び用いられるようになるとともに、懐古的に「上ロタリンギア」とも呼ばれた。その時点で既に、上ロタリンギアからもルクセンブルク伯領とトリーア選帝侯領、あるいはバル伯領、ヴェルダン、メス、トゥールから成る「三司教領」といった領邦が分裂していた。 神聖ローマ帝国とフランス王国の国境は中世を通じて比較的安定していた。1301年に バル伯アンリ3世はフランス国王フィリップ4世から封土として自身の西部の土地(Barrois mouvant)を受け取らなければならなかった。ブルゴーニュ公シャルルは1475年にロレーヌ公国に遠征したが、最終的には1477年のナンシーの戦いで敗死した。1552年にザクセン選帝侯モーリッツを中心とする反乱プロテスタント諸侯はフランス国王アンリ2世からの支援の見返りとしてシャンボール条約に従って3つの司教領を譲渡した。 17世紀のフランス国王はロレーヌの領有を欲するようになった。三十年戦争により神聖ローマ皇帝の権威が低下する中、フランス宰相リシュリュー枢機卿は1641年にロレーヌを占領を強行した。1648年のヴェストファーレン条約でフランスはロレーヌの返却を余儀なくされたが、ロレーヌの東にあるアルザスにおいていくつかの地点を獲得した。 1670年にフランスは再びロレーヌに侵略してロレーヌ公シャルル4世をヴェネツィアに追いやった。シャルル4世は当地でハプスブルク家の神聖ローマ皇帝との強力な結びつきを形成し、オーストリアの将軍としてフランス軍と戦い、甥のシャルル5世も同様に軍人としてハプスブルク家を支えた。 1697年の大同盟戦争終結時のレイスウェイク条約で手放した時を除き、フランスは公国を30年近くにわたって占領した。スペイン継承戦争中に首都のナンシーを含むロレーヌの幾つかは再びフランスによって占領されたが、ロレーヌ公レオポルトはリュネヴィル城館にて統治を続けた。 ポーランド継承戦争後の1737年にフランスとハプスブルク・両家の間でロレーヌがフランスの一部となることが同意され、公国はフランス国王ルイ15世の義父で前ポーランド国王兼リトアニア大公かつ戦争中にロシアとオーストリアの推す国王の対抗馬としてフランスから支援を受けたスタニスワフ・レシチニスキに与えられた。皇帝の娘マリア・テレジアと婚約していたフランツ・シュテファンにはメディチ家が断絶したトスカーナ大公国が代償として与えられた。フランスはまた、1713年の国事勅令でマリア・テレジアがハプスブルク家の後継者であることを確約した。レシチニスキは自身の死後にフランスに併合されることを理解した上でロレーヌを受け取った。1766年2月23日にレシチニスキが死ぬとロレーヌはフランスの州として吸収された。
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