三重合同電気と東邦電力の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 16:45 UTC 版)
「合同電気」の記事における「三重合同電気と東邦電力の関係」の解説
「五大電力」と呼ばれる戦前期の大手電力会社の一角である東邦電力株式会社は、名古屋市をはじめ東海地方を中心に供給区域を広げた名古屋電灯と、福岡市をはじめ北部九州に供給した九州電灯鉄道を主たる前身とし成立した会社である。1921年から翌年にかけて、名古屋電灯が関西電気となり、さらに九州電灯鉄道と合併して東邦電力となるまでの過程において多数の電力会社が統合されており、12府県にまたがる供給区域を持つ資本金約1億3000万円へと短期間で発展したという特徴がある。 東邦電力が統合した事業者中には、先に触れたように四日市市を中心に北勢地方に供給していた北勢電気がある。三重県下ではこれ以外にも、北勢電気と同じく1922年5月に統合された岐阜県の時水力電気が県最北部の員弁郡立田村(現・いなべ市)も供給区域に含んでいた。また三重県の伊賀地方に供給していた津電灯・巌倉水電は三重合同電気に統合されたが、その西側、奈良県・京都府南部を供給区域とする関西水力電気・山城水力電気は東邦電力に合流した。この地域は東邦電力においては東海地方の供給区域とは隣接しない飛び地で、送電連絡も当時はなかった。一連の事業統合が終了した後の1922年10月、東邦電力では三重県下での市場拡大を狙って三重合同電気の供給区域である津市・宇治山田市および河芸・安濃・一志・飯南・多気・度会・志摩各郡の主要町村を50馬力以上の大口電力需要に限って供給する制限付き電力供給区域に新規に加える旨を当局に申請。翌1923年8月30日、津・松阪・山田の3変電所設置とあわせてその許可を得た。 1920年代半ば、東邦電力では需要増加に応じて飛騨川開発・名古屋火力発電所建設を進めていたが、「五大電力」の一角日本電力の名古屋方面進出を抑えるため同社と大規模受電契約を締結、1924年10月より受電を開始した。こうして抱えた大量の余剰電力を消化すべく東邦電力では送電系統の拡大を推進し、まず1925年7月に名古屋と静岡県浜松を繋ぐ長距離送電線を完成させた。次いで新規に供給権を獲得した三重県中勢・南勢方面へ進出すべく名古屋市内から四日市変電所まで伸びていた既設送電線を津・松阪経由で宇治山田市まで延伸、1926年8月から9月にかけて同地域への送電を開始した。さらに1927年12月には、奈良・高田方面へと送電するため四日市から高田変電所に至る送電線を新設している。 名古屋逓信局の資料によると、1927年末の時点で東邦電力は三重合同電気との重複供給区域内において、津の東洋紡績津工場 (3,450kW)・岸和田紡績津工場 (1,000kW)、松阪の鐘紡紡績松阪支社 (350kW)、宇治山田の東洋紡績宮川・山田両工場 (2,950kW) などの需要家を抱えた(括弧内は供給電力)。加えて三重合同電気自身も四日市変電所にて東邦電力から7,000kWを受電する大口需要家であった。三重合同電気に対する東邦電力の電力供給は、1924年に当時の三重共同電力経由にて開始されたものである。
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