三重合同電気の設立
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1914年(大正3年)の第一次世界大戦勃発以後、産業の急速な発達により日本各地で電力不足が発生していたが、当時の三重県下では上記のように複数の中小事業者が乱立してそれぞれ独自の経営に追われており、総合的な電力供給は困難であった。こうした状況下において、戦後電気事業の統合・整理が国策とされると、当時の三重県知事山脇春樹(在任:1919 - 1922年)は国策を反映して割拠的経営の弊害を解消するべく県下の電気事業の統一を画策、主要5社に対して合併を勧告した。知事の勧告を受けて各社の代表者は協議を重ねたが、北勢電気は当時周辺の事業者を相次いで合併していた関西電気(名古屋電灯の後身、後の東邦電力)との合併を選択し、1922年(大正11年)5月同社に吸収された。また巌倉水電も合併から離脱したため、この2社を除いた津電灯・伊勢電気鉄道・松阪電気の3社にて合併協議が進められることとなった。 そして3社の新設合併により新会社を設立するという合併契約が締結され、1921年(大正10年)11月27日、3社はそれぞれ臨時株主総会を開いて合併を承認した。その後新会社設立手続きが採られ、翌1922年2月2日付で関係官庁から合併に関する認可も取得。最終的に同年5月1日、津電灯・伊勢電気鉄道・松阪電気3社合併による新会社「三重合同電気株式会社」の創立総会が津市内の津商業会議所で開催され、会社設立に至った。会社設立時の資本金は1250万円(うち1139万3750円払込)で、本社は津市南堀端津2130番地に設置。経営陣は代表取締役社長に川喜田久太夫、取締役副社長に安保庸三がそれぞれ選出された。社長の川喜田は、東京日本橋大伝馬町にも店を構える津の木綿商にして百五銀行頭取。副社長の安保は松阪電気を中心に会社経営にあたった松阪町の実業家である。 川喜田の社長在任は2年間で1924年(大正13年)7月に退任、同年9月より太田光熈が2代目社長に就任した。以後、太田は東邦電力と合併するまで社長を務めることとなる。太田は関西の私鉄京阪電気鉄道に設立初期から入社して社長にまで昇任(1925年)した鉄道経営者であるが、養父太田小三郎が伊勢電気鉄道の社長であった関係から1918年より同社社長も務めていた。
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