三重共同電気から2代目津電灯へ
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「津電灯」の記事における「三重共同電気から2代目津電灯へ」の解説
明治の末期になると、津市への供給には津電灯のほか三重共同電気株式会社も参入した。同社は1908年(明治41年)12月8日設立。本社は阿山郡上野町(現・伊賀市)の巌倉水電社内に置かれ、大阪市内にも支店を構えた。社長は上野の田中善助、常務取締役は大阪の川北栄夫で、その他の取締役・監査役も全員上野か大阪の人物であった。 社長の田中善助は巌倉水電社長も兼ねる。伊賀上野の実業家であった田中は、1904年(明治37年)に個人で巌倉水力発電所を建設し、この事業を翌年に法人化して巌倉水電の社長となっていた。田中は続いて1906年(明治39年)に名張川支流青蓮寺川の香落渓における水力開発を志し水利権を出願、「伊和水電」の設立を計画する。この事業には、当時有望な電気事業があれば投資し機械の供給などに協力するという営業方針を採っていたシーメンス・シュッケルト電気(ドイツ・シーメンスの日本法人)も加わり、同社の後援によって進捗して三重共同電気の設立となった。シーメンスを代表して同社大阪支店支配人川北栄夫(三重県出身)が取締役に加わり、同社日本代表者ヘルマンも顧問格となった。またシーメンスとかかりのある高桑確一が支配人兼技師長として入社している。 逓信省の資料によると、三重共同電気は1910年(明治43年)8月21日付で開業した。電源は青蓮寺川に完成した出力700キロワットの箕曲発電所(名賀郡箕曲村、現・名張市)で、その発生電力は津電灯へと送電されたほか、地元名張町(現・名張市)の配電にも充てられた。なお、発電所建設に際し川北栄夫が1909年にシーメンスを退職し起業した「川北電気企業社」が発電所その他の工事をすべて引き受けた。三重共同電気での工事は同社にとっての最初の事業で、以来川北電気企業社は昭和初期にかけて電気事業に関する工事の設計・施工・監督を各地で引き受け、複数の電気事業者に関与することとなる。 1910年6月、三重共同電気は20万円の増資を決議した。さらに役員に川喜田四郎兵衛・小島惣右衛門(肥料酒類商)・松本恒之助(伊勢新聞社長)ら津電灯役員を加え、8月には支店廃止の上で本店を津市南堀端へと移転した。その上で同年10月、三重共同電気は津電灯の事業を譲り受けた。津電灯は翌11月1日付で解散している。この事業統合は松本恒之助の仲介によるもの。統合で一度「津電灯」という社名は消滅するが、翌1911年(明治44年)3月5日付で三重共同電気が(2代目)津電灯と改称したことにより復活した。この時点での主な経営陣は社長川喜田四郎兵衛、専務川北栄夫、取締役田中善助・小島惣右衛門・松本恒之助である。
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