三重共同電気から2代目津電灯へとは? わかりやすく解説

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三重共同電気から2代目津電灯へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 01:43 UTC 版)

津電灯」の記事における「三重共同電気から2代目津電灯へ」の解説

明治末期になると、津市への供給には津電灯のほか三重共同電気株会社参入した同社1908年明治41年12月8日設立本社阿山郡上野町(現・伊賀市)の巌倉水電社内置かれ大阪市内にも支店構えた社長上野田中善助常務取締役大阪川北栄夫で、その他の取締役監査役全員上野大阪人物であった社長田中善助巌倉水電社長兼ねる。伊賀上野実業家であった田中は、1904年明治37年)に個人で巌倉水発電所建設し、この事業翌年法人化して巌倉水電社長となっていた。田中続いて1906年明治39年)に名張川支流青蓮寺川香落渓における水力開発志し水利権出願、「伊和電」の設立計画する。この事業には、当時有望な電気事業があれば投資し機械供給などに協力するという営業方針を採っていたシーメンス・シュッケルト電気(ドイツ・シーメンスの日本法人)も加わり同社後援によって進捗して三重共同電気設立となったシーメンス代表して同社大阪支店支配人川北栄夫(三重県出身)が取締役加わり同社日本代表ヘルマン顧問となった。またシーメンスとかかりのある高確一が支配人技師長として入社している。 逓信省資料によると、三重共同電気1910年明治43年8月21日付で開業した電源青蓮寺川完成した出力700キロワット箕曲発電所名賀郡箕曲村、現・名張市)で、その発生電力津電灯へと送電されたほか、地元名張町(現・名張市)の配電にも充てられた。なお、発電所建設際し川北栄夫が1909年シーメンス退職し起業した川北電気企業社」が発電所その他の工事をすべて引き受けた三重共同電気での工事同社にとっての最初事業で、以来川北電気企業社は昭和初期にかけて電気事業に関する工事設計・施工監督各地引き受け複数電気事業者関与することとなる。 1910年6月三重共同電気20万円増資決議した。さらに役員川喜田四郎兵衛小島惣右衛門肥料酒類商)・松本恒之助伊勢新聞社長)ら津電灯役員加え8月には支店廃止の上本店津市南堀端へと移転したその上で同年10月三重共同電気津電灯事業譲り受けた津電灯は翌11月1日付で解散している。この事業統合松本恒之助仲介よるもの統合一度津電灯」という社名消滅するが、翌1911年明治44年3月5日付で三重共同電気が(2代目)津電灯改称したことにより復活した。この時点での主な経営陣社長川喜田四郎兵衛専務川北栄夫、取締役田中善助小島惣右衛門松本恒之助である。

※この「三重共同電気から2代目津電灯へ」の解説は、「津電灯」の解説の一部です。
「三重共同電気から2代目津電灯へ」を含む「津電灯」の記事については、「津電灯」の概要を参照ください。

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