七橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 14:07 UTC 版)
駒返り橋(こまかえりばし) 駒返橋、駒皈橋とも書く。駒入橋(こまいりばし)とも。元善町、善光寺参道と駒返り橋通りの交差点北側にある石橋。駒形嶽駒弓神社の神が神馬に乗ってきたとき、ここで馬を返したという説、もともと彦神別神社の下馬橋だったという説、善光寺の儀式、年越しにおいて戦前まで駒形嶽駒弓神社から木馬(=駒)を届ける際の通行路だったためという説、一般的に有名なものには源頼朝の馬の脚が橋の穴にはまり、馬を返したためという説もある。現在も橋の西側の石には穴が残り、ここから腕を伸ばして水路の泥を取り、これを子どもの皮膚病の患部に塗るとよく効くとの迷信があった。 地獄橋(じごくばし) 盲橋(もうばし、めくらばし)、盲目橋(もうもくばし)、中沢橋(なかざわばし)ともいう。また、地窪橋との表記もある。西後町南、長野朝日八十二ビル前にあった。現在暗梁になっており、中沢川が通過している。 淀ヶ橋(よどがばし) 穢土橋(えどばし)、穢土ヶ橋(えどがばし)ともいうが現在は使われない。礫多橋(えたばし)、依田橋ともよばれた。新町、東参道(北国街道)と湯福川の交差するところにあった。現在暗梁。付近の字、淀ヶ橋の名の由来になっている。 花合橋(けあいばし) 帰り橋(かえりばし)、返り橋とも。はなあいばしと読む場合もある。『地震後世俗語之種』には華相橋とある。『善光寺史』において坂井衡平は化粧橋(けわいばし)が正しいとし、花相橋(けあいばし)、花合橋、花揚橋(けあげばし)と書くのは訛りとする。1878年(明治11年)の明治天皇御巡幸の際、蓬莱橋(ほうらいばし)と改め、1925年(大正14年)の長野中央通り改修の際は初音橋(はつねばし)と改めているが、もっぱら使われていない。大門町、大門西交差点にある。現在暗梁。鐘鋳川が通過している。「返り」の名の由来は、源頼朝が往生院の蓮を思い出し振り返った為とする。「帰り」の名から、婚礼の際には通行を忌む風習があった。 鶴賀橋(つるがばし) 鶴ヶ橋とも書く。新田町南、長野中央通りにあった。現在暗梁。南八幡川が通過している。名の由来は、鎌倉の鶴ヶ岡に地形が似るからとも、元禄年間の『元禄如来堂再建地図』には源頼朝が南八幡川にて禊をしたからだともいう。当地の大字、鶴賀の名の由来となっている。 独寝橋(ひとりねばし) 独寝の橋(ひとりねのはし)ともいう。松代藩領時代に付近の如法寺に隣接して番屋があったことから番屋の橋ともいう。『北信郷土叢書』巻六には、独正味橋と書かれている。妻科の妻科神社西約100メートル、鐘鋳川が道路を横断するところにあるった。現在暗梁。妻科の別名、「つまなし」(=妻無し)から連想し、この名がついたとされる。付近の妻科神社社務所の車寄せに使われている一枚岩は、石橋であった独寝橋でつかわれていた3枚のうちの1枚である。「独寝」の名から、婚礼の際に通行を忌む風習があった。 積善橋(せきぜんばし) 瀬木前橋とも書く。瀬木橋(せきばし)とも。長野駅東口付近、現在のホテルメルパルク長野の南にある交差点にあり、南俣大堰に架かっていた。現在暗梁。石橋がコンクリートで補強されながらも残っていたが、再開発によって失われた。栗田と七瀬の境にあたる。 筋違橋(すじちがいばし) 虎ヶ橋(とらがばし)ともいい、虎が橋とも書く。済度橋(さいどばし)ともいう。済土橋の表記もある。東町の武井神社西、前述の虎小路中程にある。 応田橋(おうだばし) 地元では大橋(おおはし)とも。三輪八丁目、北国街道と次郎堰が交差するところにある。『善光寺史』において坂井衡平は雁田橋(がんだばし)の誤りか、としている。 阿みだ橋(あみだばし) JR長野駅構内の南石堂町、中御所、栗田の境にあり、用水路の渇計川に架かっていた。 帰り橋、独寝橋、高田にあった馬詰橋をあわせて善光寺三忌橋という。
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