ローマ時代と破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:00 UTC 版)
「アレクサンドリア図書館」の記事における「ローマ時代と破壊」の解説
元首制(プリンキパトゥス)下ローマ時代(前27年-後284年)のアレクサンドリア図書館についてはほとんど知られていない。クラウディウス帝(在位:41年-54年)はアレクサンドリア図書館を増築したと記録されているが、この図書館自体はアレクサンドリア市自体の趨勢と運命を共にしたと思われる。アレクサンドリアがローマの支配下に入った後、この都市の地位は徐々に低下し、その結果として図書館も次第に縮小した。ムセイオンは未だ存在していたが、その一員たる資格は学術的成果ではなく、むしろ政治・軍事または運動競技における栄光に基づいて授与されていた。図書館長の地位についても明らかに同様であった。ローマ時代のアレクサンドリア図書館長は、ティベリウス・クラウディウス・バルビルス(英語版)という人物しか知られていない。彼は1世紀半ばに生きた政治家・行政官・軍官であり、重要な学術的業績は記録されていない。ムセイオンの成員ももはや、教育、研究活動、そしてアレクサンドリアに住むことすら必要とされていなかった。ギリシア人の著作家フィロストラトスの記録では、ハドリアヌス帝(在位:117年-138年)は民俗学者(ethnographer)ミレトスのディオニュシオスと、哲学者ラオディキアのポレモン(英語版)をムセイオンの一員に任命したが、両者とも意味のある期間アレクサンドリアで時を費やしたことは一度として無い。 アレクサンドリアの学術的名声が低下する間、地中海世界各地の図書館の名声は高まり、最も重要な図書館としてのアレクサンドリア図書館の往年の地位も失墜した。こうした新しい図書館の中にはアレクサンドリア市内に新たに立ち上がったものもあり、アレクサンドリア図書館の蔵書はおそらくこうした小さな図書館に転用されたかもしれない。アレクサンドリアのカエサリウム(英語版)とクラウディアヌムは共に、1世紀末までには重要な図書館が設置されていたことが知られている。古代史学者エドワード・J・ワッツによれば、セラペウムにあった元々のアレクサンドリア図書館の「姉妹館」はおそらくこの時代に同じように拡張された。 2世紀までに、ローマ帝国がアレクサンドリアからの穀物への依存度を低下させると、アレクサンドリア図書館に対する注目度はさらに低下した。この時代の間、ローマ人はアレクサンドリアの学問にも興味を失っていたため、アレクサンドリア図書館の評判も同様に低下し続けていた。ローマ帝国時代にアレクサンドリア図書館で研究や勉強をしていた学者はプトレマイオス朝時代に比べてあまり良く知られていない。最終的に「アレクサンドリア人」という用語自体が「テキスト編集者」「校訂者」そして「古い学者たちの業績を統合し注釈をつける人」を意味するようになった。これは別の言い方をすれば、衒学、単調さ、独創性の欠如を示している。アレクサンドリア図書館と、それを含むムセイオンの双方への言及は、3世紀半ばを過ぎると無くなる。現在知られている限り、ムセイオンの一員である学者への最後の言及は260年代のものである。 272年、アウレリアヌス帝はパルミュラ帝国の女王ゼノビアの軍からアレクサンドリアを奪回するために戦った。この戦いの最中、アウレリアヌス軍はアレクサンドリアの図書館があったブルケイオン地区を破壊した。もしムセイオンと図書館がこの時まだ存在していたならば、同様にこの攻撃によって破壊されたことはほぼ確実である。万が一この攻撃の後もムセイオンと図書館が生き残っていたとしても、その後のディオクレティアヌス帝による297年のアレクサンドリア包囲において破壊されたであろう。
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