ローマ時代から16世紀まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:31 UTC 版)
「コヴェント・ガーデン」の記事における「ローマ時代から16世紀まで」の解説
ローマ帝国においてロンドンがロンディニウムと呼称されていた時には既に人が居住していた。 イングランド国王ジョン (1199年 - 1216年) の時代にコンヴェント・ガーデン ("Convent Garden") と名付けられたが、時代が下るにつれ現在のようにコヴェント・ガーデン (Covent Garden) と書かれるようになった。当初はミドルセックスにおいて、東西をセント・マーティンズ・レーンとドゥラリー・レーンに、南北はフローラル・ストリートと、チャンドス・プレイスからエクセター・ストリートを経てオールドウィッチに至る線に囲まれた40エーカー (160,000 m2) ほどの地域が領域であった。 中世にはこの地区はウェストミンスター大修道院 (アベイAbbeyまたはコンヴェントConvent) の食料を賄う野菜畑 (Garden)として利用されていた。それから数世紀は修道院のみならずロンドンの住人が食べる野菜類はこのコンヴェント・ガーデンで作られていた。 ウェストミンスターの修道院が食料を独占することを批判する声も時折あがっており、ヘンリー8世は1540年に僧院と所有地の解体を宣言している。土地は海軍総司令官を務めたラッセル男爵ジョン・ラッセル(後のベッドフォード伯爵)に与えられた。父の遺言を受けてエドワード6世は残りの土地を1547年に伯父である初代サマセット公エドワード・シーモアへと贈与し、シーモアはストランドの南にサマセット・ハウスを建設した。1552年にシーモアが反逆の罪で断首されると、土地は改めてシーモアの没落を手助けした貴族に贈与された。ベッドフォード伯へと譲渡された40エーカー (160,000 m2) ほどの土地はランド・パテントにより認可され、"le Covent Garden"および"the long acre"として知られている。
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