ロシアでの業績
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「ミハイル・ロモノーソフ」の記事における「ロシアでの業績」の解説
ロシアに戻ったロモノーソフはサンクトペテルブルク大学で化学の教授に任命され、後に学長 (rector) となった。1748年7月5日にはオイラーに向けた手紙の中で、気体分子運動論や質量保存の法則を思わせる言葉を残している。同じ1748年、重力を説明する古典力学的理論についての成果も残している。 彼はロシア教育の改革に努め、1755年に貴族のイワン・シュバロフ (Ivan Shuvalov) の支援を受けて後のモスクワ大学を設立した。1756年にはロバート・ボイルが1673年に行ったフロギストン説に疑問を持ち、日記に「密閉したガラス容器に金属をいれ、加熱して質量がどのように変わるかを調べた。13ページに及ぶ記録の結果、ボイルの実験は間違いであり、外気が無ければ金属が燃焼しても質量が代わらない」と記録している。この発見はラヴォアジエが質量保存の法則を確立した1789年よりも早い。 1762年、ロモノーソフはニュートン、グレゴリーらの望遠鏡を改良し、ロシア科学アカデミーの学会に先立って公開された。凹面鏡が1つであり、調整軸が4つある。凹面鏡で反射された光が接眼レンズに集まるようにできている。ただしこの成果は1827年まで論文に掲載されなかったため、先発明の名誉はこの数年後に開発したイギリスのウィリアム・ハーシェルに与えられている。 ロモノーソフは水銀を凝固させた初の人物でもある。1760年には氷山が生成する過程を説明している。1761年にサンクトペテルブルクの自宅近くで観測した金星の日面通過を元に、金星に大気圏があるとの仮説を立てた。また、土壌、泥炭、石炭、石油、コハクが生物が変化したものであることを証明して見せた。 ロモノーソフは地理学者でもあり、ヴェーゲナーの大陸移動説を思わせる記録を残している。また、南海から氷山が来ることから南極の存在を予言している。また、航海中の距離と方位をより簡単に求める道具も発明している。1764年、チチャーゴフ将軍 (Vasili Chichagov) を隊長とする探検隊を組織し、シベリア北岸から出て大西洋と太平洋を結ぶ北極海航路を発見した。また同じ1764年、州の大臣に任命された。
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