ロシアでの従軍
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「カール・フォン・クラウゼヴィッツ」の記事における「ロシアでの従軍」の解説
1812年2月24日にプロイセンがフランスと軍事同盟を締結した時にクラウゼヴィッツは自らの政治的見解を著作にまとめて公表に踏み切ろうとしたがグナイゼナウの反対から断念した。この著作は国民としての品位と自由を守るために戦わなければならず、プロイセンの存続のためにフランスとの同盟はありえないことを呼びかけたものであった。1812年3月31日にクラウゼヴィッツはベルリンを離れ、フランクフルトの兄弟に挨拶をしてからロシアへ向かった。4月18日に辞職願も認可され、馬車の購入費などの旅行費用もマリーが援助し、ブレスラウからケーニヒスベルクとタウロッゲンを経由して6月6日にロシア防衛軍司令部が置かれていたヴィルナに到着した。シャルンホルストの推薦状と既にロシア軍で戦っていたグナイゼナウ大佐やロシア皇帝の武官ヴォルツォーゲン中佐の配慮により、ロシア軍中佐に任命された。当時の戦況はフランス軍に有利であったが、1812年2月にシャルンホルストは皇帝アレクサンドル1世に特使を派遣して軍事戦略に関する助言を行った。それはロシアの広大な領土の奥地に戦場を移すことでフランス軍を弱体化させる戦略を提言するものであった。
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