ロシアでの展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 23:57 UTC 版)
ジャディード運動の端緒となったのは、1880年代のクリミア半島とされる。クリミアのバフチサライ市長を務めたイスマイル・ガスプリンスキーやen:Ghabdennasir Qursawiやムーサー・ビギエフ(英語版)は、ムスリム社会の伝統的教育システムを批判し、実用的な教育方式の必要性を主張していた。彼の手により、1883年に最初の新方式学校がバフチサライに開設された。新方式学校では、生徒の母語であるクリミア・タタール語や、四則計算、およびイスラームに関する基本的な知識が教授され、教室、黒板、机、教科書、地図といった近代的な教育装置が学校に導入された。 新方式教育は、識字率の向上などに大きな成果を挙げたため、クリミアだけでなく、カフカス、ヴォルガ川沿岸のムスリムの間にも普及した。また、ジャディードが出版したバフチサライの『テルジュマン』紙や、チフリスの『モッラー・ナスレッディン(英語版)』紙といった新聞も、教育改革の主張を広める上で重要な役割を果たした。 一方でロシア政府は、こうした改革運動が、汎テュルク主義や汎イスラーム主義的傾向をもっているとみなし、オスマン帝国や英領インドのムスリムとの連携を恐れて、運動の動向を警戒した。 また、ロシア政府だけでなく、モスクや宗教教育施設の運営を行っていたウラマー層(ジャディードに対して、カディーム(qadīm、「古い」の意)と呼ばれた)も、既得権益を侵されるとして、ジャディードに敵対的であった。(ジャディードとカディームの間の対立は、地域社会の主導権を巡る対立であり、イデオロギー上の差異は、それ程大きなものではなかったと位置付ける研究もある。) ジャディード運動からは、ガリムジャン・バルーディー(Ğ. Barudi、Галимджан Баруди)、ムーサー・ビギエフ(英語版)(M. Bigiev)、アブデュルレシト・イブラヒム(Ğäbdräşid İbrahimov)、リザエッティン・ファフレッティノフ(R. Fäxretdinev, Ризаитдин Фахретдинов)など、ロシア革命前後に民族エリートとして活躍したムスリム知識人が多く輩出された。
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