レースでのエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 20:33 UTC 版)
「デレック・ワーウィック」の記事における「レースでのエピソード」の解説
1982年イギリスグランプリは、一時2位を走行するも41周目にリタイヤ、ドライブシャフトのトラブルが原因と発表された。しかし後日、実際にはスポンサーからテレビに映るように圧力がかかったため、チームがドライバー承諾のもと、マシンが軽くなり速さを見せられるハーフタンクで走ったという経緯が判明した。結果的には、軽いマシンで予選16位から2位まで追い上げる過程で、TVに多く映り目的を達成した(76周中41周目に燃料切れ)。 1986年のブラバム加入の際は、エリオ・デ・アンジェリスの死に際し、他の多くのドライバーがバーニー・エクレストンらチーム首脳に後任として売り込みの電話をかけてきたのに対し、有力ドライバーの中で唯一そのような電話をかけなかった。本人曰く「ああいう時には、チームの誰もが嘆き悲しんでいるはず」と判断して自重したとのことだが、逆にその点がエクレストンに評価され契約に至った。ワーウィックの人柄を表す代表的なエピソードとして知られる。 同じく1986年のオーストリアグランプリでは、チームメイトのリカルド・パトレーゼのマシンがレース直前になりトラブルに見舞われ、既にスペアカーも使い切った状態であったため、エクレストンの指示でワーウィックのマシンをパトレーゼに譲ることになり出走できなかった。当時パトレーゼがBMWの強力なバックアップを受けていたことが背景にあり、この交代劇も裏でBMWの指示があったとされる。 1990年第12戦イタリアグランプリでは、オープニングラップの最終コーナーでコースアウト、フェンスに衝突後にマシンが横転する大クラッシュに遭うが無傷で生還。さらに、クラッシュ直後にインタビューマイクを向けた川井一仁に対し、「グージェルミンのスリップストリームに入っていたんだけど…」と、ピットへと小走りしながら何事もなかったかのように冷静に状況を話した後、スペアカーに乗り込み再スタートへと向かい、そのタフネスぶりで周囲を驚嘆させた。 1991年8月に、15歳年下でありイギリスF3000で開幕以来全勝を誇っており、翌年にF1進級が噂されていた弟のポール・ワーウィックが、オウルトン・パークで行われていたイギリスF3000の事故で他界。この年の末から、英国の優秀な若手レーサーを表彰する「ポール・ワーウィック記念杯」が企画され、当時F3に参戦していたデビッド・クルサードが初代受賞者となり、2001年には佐藤琢磨が受賞している。ポール死去の直後、SWCニュルブルクリンクの予選中、メルセデス・ベンツ・C291のミハエル・シューマッハがアタック中のワーウィックの進路を故意にブロックしマシンをぶつけた(その直前にシューマッハが「ジャガーにブロックされた」と感じた動きがあったとされる)。予選終了後のピットで、ワーウィックはメルセデスがぶつかってきたことに激怒し、メルセデスのトランスポーターに殴り込んだ。しかし、捕まえ殴ろうとした相手であるシューマッハの顔を見ると想像以上に若く、弟を思い出したため一息入れ、「他のドライバーも尊重しないとダメだ」と小言だけで済まし殴るのを思い留まった。 一度だけWRCにも参戦したことがある(1990年RACラリーでマシンはプロドライブ製のグループAスバル・レガシィ、成績は13位まで順位を上げていたが3日目にリタイアとなった)。
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