ラグビー選手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:00 UTC 版)
「2011年のニュージーランド大会では、試合の合間に(先住民の)マオリの村に行ったりしました。現地の人と触れ合うのは選手にとっても楽しかったです」 「たとえば、ボールキャリアがどのタイミングでどこにパスを出すのか、あるいはキック蹴るのか蹴らないのか、蹴るとすればどこに蹴るのかというような判断基準をすべての局面でみんなが同じ感覚で共有できるようになれたら、それが一番いい」 「ラグビーボールを運ぶスキルに、特殊性はない。手渡しで運んでいくので、極論すればペットボトルでもラグビーはできます。サッカー、バスケットボール、ハンドボールといったゴール型と言われるボールゲームに共通する動きの肝を、ラグビーで身に付けられるんじゃないかと思うんです」 「う~ん。(W杯は)他と違うということを自分たちで作り上げてしまっている気もするんですよ。そうではなく、いい準備をして、結果を獲りに行く大会だととらえたい。自分自身3回目の大会はそうありたい。やる以上は、他と同じ試合。そこまでいけたらいいチャレンジができる。そうありたいという想いが2007年(フランス)大会以降、僕を代表へ執着させたと思うんです。だから今回は、結果を獲りにいく。勝ちたい」」 「ベテランって言われる選手たちが持っているのは経験ですよね。経験って、ゲームの中での確率をどう扱うかのスキルだと思う。残り時間、いろんなリスクの中で、こっちの方が、『試合の最後に、1点以上相手よりもスコアが多くなっている確率』が、高そうだぞっていう判断、選択」 「大学の講師ですかね……いやでも、学生でいいかもしれない。選手も、もしかしたら入るかもしれません」2017年4月以降の肩書を問われ
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ラグビー選手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:46 UTC 版)
熊本工業高校、八幡製鐵所でラグビー選手として活躍。ポジションはロック(LO)。社会人時代のサイズが189㎝、93㎏という当時の日本ラグビーでは規格外の体格と100m走が11秒2というWTB並のスピードを武器にFWの中心選手となり日本代表にも選出された。八幡製鐵に入社した理由は、熊本工高の担当教諭から「お前が入社しなければ、来年以降、八幡はうちの生徒を取ってくれなくなる。」と諭されたことに起因するものであり、自身は大学でラグビーがしたかったと述懐。また当時、複数の大学チームから勧誘を受けていたことも証言している。 八幡製鐵では、宮井国夫、土屋俊明といった大学出の選手らとともに、八幡製鐵の黄金時代の一翼を担い、日本協会招待NHK杯争奪ラグビー大会(日本ラグビーフットボール選手権大会の前身大会)、全国社会人大会の優勝メンバーの一員として名を連ねた。 また1963年のブリティッシュコロンビア州戦に出場し、日本代表キャップ1を獲得している。ラグビーマガジンのインタビューでは野茂英雄やイチロー、中田英寿らが海外に挑戦したいと言う気持ちがわかると語っている。 八幡を辞めた理由は、英語に堪能だった草津に嫉妬した当時の大卒の上司に、「じゃ、これ訳してくれないか」と言われた書物がドイツ語だったことにカチンときたため、という話があるほか、大卒と高卒とでは、社内では厳然たる差があったため、という話を述べている。
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