ヨーロッパ出張
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1937年春、ヨーロッパ出張の際、「ドイツ海軍が電波を使用して距離を測れる装置の開発に成功した」との未確認情報をドイツで聞き、また、イタリアでも短波を使った兵器開発の可能性について話を聞いたところであった。伊藤はドイツ大使館経由で軍中央に報告したが、この情報は握りつぶされたという。 伊藤研究室にて1933年から続けていたマグネトロン(磁電管)の研究が進み、1937年末には八分割陽極マグネトロンの最初の試作品を作成。これを基に橘型、菊型のセンチ波マグネトロンの開発に成功する。1939年初頭、マグネトロンの研究成果の一部を日本無線に公開し、その出力増加・量産化を委ねた。橘型マグネトロンを使って暗中測距装置の共同研究を開始し、1940年秋には試作機を完成させ、同年10月10日に鶴見沖で空母「赤城」を対象に実験を行い、成功させた。ただし、海軍はマイクロ波技術は即戦力にならないと判断し、開発を中止させてしまった。一方、ほぼ同じ頃にイギリスでも同じ方式のマグネトロンが開発され、アメリカにこれが提供された後、マイクロ波レーダーとして開発され、戦争で活用されている。 1939年春、大和田受信所(のち大和田通信所)の初代所長の和智恒蔵より、アメリカ軍太平洋艦隊の発する電波の解析について相談を受け、協力することとした。密かに作業を進め、望ましい結果を得るための状態や、その場合の受信地の場所などの助言をまとめた報告書を作成。この結果、太平洋艦隊は週初めに基地を出て、ラハイナ・ロードという海域で訓練をし、週末に真珠湾に帰投して休養を取るという行動様式を確認。後に真珠湾攻撃の日時を決めるのに役立ったとみられる。 1941年2月下旬から6月にかけて、ドイツ視察に同行し、パルス変調を使った航空機検出装置を見学し、海軍本部へ報告する。同じ頃、ロンドン駐在の浜崎造兵中佐からもレーダーに関する情報が報告され、日本でもレーダー(電探)の開発が進められる。その後に完成した対空用の二号一型電探と、対水上警戒用の一〇三号電探(後の二号二型電探)を戦艦「日向」に搭載した実験で、「一〇三号については撤去すべき。」と判断された際、「目的が異なるものを同じ装置で行うことは困難。」と伊藤は異論を唱え、マイクロ波電探の必要性を訴えた。
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