ヨーロッパ初の民族学博物館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 19:17 UTC 版)
「国立民族学博物館 (オランダ)」の記事における「ヨーロッパ初の民族学博物館」の解説
この機関は当初「日本博物館」(ラテン語: Museum Japonicum)と呼ばれていた。ヨーロッパではじめて、自然のものではなく人工物を蒐集の対象としており、そのようなコレクションが単なる好奇心の対象を超えたものになることを示す革新的な博物館であった。設置当初から、すくなくとも蒐集・科学的研究・大衆に向けた展示・教育的解説の四つの方針を据えていた。 1830年代初頭、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはベルギーの革命にともなう政治的混乱を避け、そこよりおだやかであったライデン大学へと移った。その数年後、シーボルトの約5000点の日本に関するコレクションを中心に新しい博物館ができることになる。ライデンのシーボルト邸は公開され、日本で8年間かけて蒐集し、ヨーロッパに持ち帰ったその資料が展示されていた。のち、シーボルトが自身のコレクションをウィレム1世に寄贈したことが契機となり、王家のコレクションの一部として、ライデンに民族学に関する博物館を設置することとなる(オランダ語: Rijks Japansch Museum Von Siebold)。オランダ王家は、すでに1826年に#ヤン・コック・ブロンホフから、1832年に#ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセルから収集品を買い入れ、日本に関する小規模なコレクションをハーグに置いていたが、王家コレクション管轄(オランダ語: Koninklijk Kabinet van Zeldzaamheden)の省庁が廃止となったとき、これらふたつのコレクションをライデンの博物館に移したところから、今日の国立博物館へと繋がったのである。 1843年、シーボルトはヨーロッパ[疑問点 – ノート]に対して、ライデンに作られたような民族学研究機関を作るよう書簡で促した。その文面で「殖民地を有するヨーロッパ国家にとって、[そのような機関を]設置する重要性は、支配される民族を理解し、あるいは大衆や市場において関心を引き出す役割を担わせることにある。これらすべてが貿易の成功に欠かせない条件となる」と述べている。 館名は1864年に民族誌博物館(オランダ語: Rijks Ethnographisch Museum)となって以降、1935年の改称で民族学博物館 (Rijksmuseum voor Volkenkunde)、その後は2005年に Museum Volkenkunde となり、2013年以降は Rijksmuseum Volkenkunde と表記されている。
※この「ヨーロッパ初の民族学博物館」の解説は、「国立民族学博物館 (オランダ)」の解説の一部です。
「ヨーロッパ初の民族学博物館」を含む「国立民族学博物館 (オランダ)」の記事については、「国立民族学博物館 (オランダ)」の概要を参照ください。
- ヨーロッパ初の民族学博物館のページへのリンク