ヨハネス11世 (ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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ヨハネス11世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/20 18:35 UTC 版)

ヨハネス11世
第125代 ローマ教皇
教皇就任 931年3月
教皇離任 935年12月
先代 ステファヌス7世
次代 レオ7世
個人情報
出生 910年
教皇領ローマ
死去 935年12月
教皇領ローマ
その他のヨハネ
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ヨハネス11世(Ioannes XI、910年 - 935年)は、ローマ教皇(在位:931年 - 935年)。

スポレートアルベリーコ1世ポルノクラシーで悪名高いマロツィアの息子とされる。リウトプラントとLiber Pontificalisによると、ヨハネス11世はセルギウス3世の実子だとされる("Johannes, natione Romanus ex patre Sergio papa", "Liber Pont.")。

彼の母はその時代における事実上のローマの支配者であったがために、ヨハネスを聖ペテロの座につけることができた。マロツィアはそれにより教皇を完璧な統制の元に置けるようになったのであった。

マロツィアが排除されると、ヨハネス11世は弟アルベリーコ2世932年 - 954年)の統制下に置かれた。教皇の自由になる唯一の公務は純粋に霊的な義務を果たすのみとなった。他の全ての公務はアルベリーコ2世を通じて行われた。これは世俗的な事のみならず、教会内部の事柄においてさえそうであった。

アルベリーコ2世は、パリウムコンスタンティノポリス総大主教のテオフィラクトス(935年)や、ランス大司教アルトー(933年)へ与えよと執拗に迫った。教皇座が最も虐げられていた時代にその座にいたのがヨハネス11世であった。しかし彼は、その頃多くの特権をクリュニー修道院に与えており、それがのちの教会改革運動に繋がることとなる。

参考文献

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