ヤルメラの発見と調査史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 19:44 UTC 版)
ヤルメラの遺跡が発見若しくは記録上最初に訪問されたのは、19世紀中葉に、エフライム・G.・スクワイヤーによる踏査によってであるとされる。スクワイヤーは、コマヤグア河谷を大陸縦断鉄道沿いに踏査を行った際にこの遺跡を発見し、上流のちいさな村にちなんでこの遺跡をヤルメラと命名した。スクワイヤーは、ヤルメラについて詳細に記録し、当時は現在よりも遺跡の保存状態がよかったことがわかっている。20世紀に入ってからの中米考古学の踏査記録でヤルメラについては二件の記録が知られている。ひとつは、1926年のサミュエル・K・ラスラップによるもので、Tenampuaに訪れる途中でヤルメラ付近を通過している。もうひとつは、イェンス・イウデ(Jens Yde)によるチューレイン大学とデンマーク国立博物館の調査隊によるものである。この調査隊は直接発掘調査は行わずにヤルメラの遺物とするものを紹介しており、実際にそうなのか疑念をもつ研究者もいる。1930年代に、コマヤグア教区の司教であるフェデリコ・ルナルディ(Moseno Federico Lunardi)がヤルメラに関心を持ち、ルナルディ司教は、1948年に著書を公刊して、構築物103号の下方にウムヤ川の湾曲部と三日月湖があったこと、構築物101号とその付近から出土した破片についてマヤのものとして紹介した。 ヤルメラについて、初めて学術的な団体によって本格的な調査が行われたのは、20世紀中葉になってからである。最初に挙げられるのは、ヨエル・キャンビー(Joel Canby)によるヤルメラの周辺部の試掘調査である。キャンビーは、土器の編年を確認するために行ったこの試掘で、ヤルメラの遺物がコパンの古期ないし先古典期の遺物と同じと言っていいほど共通していることを確認した。 1957年および1972年には、ドリス・ストーンによって調査が行われた。表面採集の成果だけでもメソアメリカ南東部地方の形成期段階の発展を示唆する遺物があることが確認され、ストーンは報告書に実測図と詳細な記述を掲載し、ヤルメラがコマヤグア河谷にとどまらず、中央アメリカ全体でも学術調査が必要な重要な遺跡であることを示した。 クロード・ボーデ(Claude Baudez)は、ヤルメラを訪れただけでなく、ヤルメラに近いLo De Vaca遺跡の調査を行うとともに表面採集をおこない、その成果を1966年に発表した。キャンビーやストーンの調査を踏まえ、その所見が正しいこと、河谷単位でまたがってロス・ナランホスやプラヤ・デ・ロス・ムエルトスなどホンジュラス北部の遺跡にみられる土器複合を含めて、居住システムのなかに位置づけられるとした。 1980年にJ-マンデヴィル(L.R.V.Joesink-Mandeville)による南米とメソアメリカの形成期段階での土器複合の関連を調べることも目的としたプロジェクトの一環での大規模な発掘調査がヤルメラで行われた。まず、以前キャンビーが調査を行ったマウンドがない場所で3度にわたる調査が行われ、1986年にその成果が報告された。 1988年から1990年の間にも3度にわたってヤルメラのより古い時期の遺構プランに焦点をしぼった発掘調査が行われた。つまり、ヤルメラにおいて、社会階層がどのように発生し、そうして成立した支配階層がどのように建築活動を行ってきたかを知ることを目的として、祭祀などのような公共的な目的のために建てられた建造物が繰り返し構築されるその個別の建物について記録する調査であった。 これらのふたつの研究のほかに、1985~1987年にかけてディクソン(Boyd Dixon)によって、地域性による違いや明確な共通する基準がないか、ヤルメラの形成期の政体が発生した時期に文化が伝播する通路として、高地の河川がどのような役割を果たしたのかを調べるためにコマヤグア河谷の10%に及ぶ範囲をランダムに踏査が行われた。
※この「ヤルメラの発見と調査史」の解説は、「ヤルメラ」の解説の一部です。
「ヤルメラの発見と調査史」を含む「ヤルメラ」の記事については、「ヤルメラ」の概要を参照ください。
- ヤルメラの発見と調査史のページへのリンク