メルボルンオリンピック日本選手団が着用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:08 UTC 版)
「スタンダード靴」の記事における「メルボルンオリンピック日本選手団が着用」の解説
1956年 経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記され、神武景気が靴市場にもやっと影響を及ぼし始める。しかし三倉商事、七星産業など靴問屋大手が倒産するなどの事態も発生していた。そんな中スタンダード靴チェーン会の強力な支援により「フーバー」「カーネル」「イートン」など紳士靴は好調に推移した。「フーバー外羽根 ST10」は売り上げトップだったが、さらに新型も9型発表した。その他に10月に社の研究室の苦心作である「ロートップ(口周りが広いイタリアンカット)」シューズが大変好評を得る。しかし婦人靴製造は多様化するデザインなどに対応できず前年より中断し仕入れ販売で対応していた。その結果「ヤマト商事」「アサヒ商事」における婦人靴は順調に伸びていった。この年「ヤマト商事」の協力会社によって構成されているヤマト会の1社である「パラマウント製靴株式会社」の業績が悪化した。窮地の一助にするために社の既存販売ルートに「Paramount」ネームの商品を投入することで取引を行うことにした。パラマウント製靴の発行株式の4万株(社として1万株・池田和夫と勝芳真(ヤマト商事社長)が各1.5万株)も取得した。ラジオ東京「ガイドタイム」にCM、文藝春秋・朝日新聞などに深沢邦朗制作による広告を積極的に打った。この年オーストラリアで開かれた第16回オリンピックメルボルン大会へ出場した日本男子選手団は「マイトST33ボックス」を着用した。スタンダード高等学校が10周年を迎える。宮澤胤勇が運輸大臣に就任(石橋湛山内閣)。 1957年 神武景気は国際収支の悪化により急速に冷え込み「速すぎた拡大とその反省」と言われるなべ底不況に突入する。 1958年 デフレの影響下で消費者は財布をしめたが靴の消費は増加を続けた。チェーン会の活動をさらに活発化させ消費の掘り起こし新商品も充実した。「リンカーン ST12」「エール ST10」「ミシガン ST33」などのタウンシューズに加えカジュアルデザインの「ミラノ ST61/ST69」が投入される。12月に淀川工場内にあった大阪支店を大阪市東区安土町2−1へ移転した。 1959年 景気回復の兆しも出てきたが海外原皮相場のジリ高の傾向が強まった。主力製品に加えさらなる新商品を投入、春の見本市では6億円を突破するという未曾有の好成績を収めた。しかし皮革市場がますます悪化し、相次ぐ皮革の値上げに抗しきれず4月に価格改定せざるを得なくなった。広告やサービス面で販売店の負担軽減に勤めたが革の値段はさらに上昇し再び6月に価格改定せざるを得なかった。この年伊勢湾台風が上陸、甚大な被害に達した中、救援物資として社として靴を送った。一方で秋冬物の見本市では買い控え傾向が目立ったため5億8000万円にとどまった。しかし10・11月には注文が殺到し工場もフル稼働状態になる。フォーマルな内羽根に凝ったデザインが市場を賑わす結果となった。セメント圧着や合成底もこの年から増加傾向になった。 1960年 岩戸景気。ダッコちゃんが大流行したこの年、「ST10」木型を中心に19型を用意した。エルク・シュリケンやアニリンカーフが登場。このソフトな革はグッドイヤーのみならずマッケイ・セメントなど紳士靴の新しい消費を生み業界内でも「靴ブーム」と言われるほど需要が需要を呼び戦後の黄金期という活況を生んだ。この年に北海道地区では代理店契約を結んで販売する方法がとられていたが、道内の月星化成やアサヒゴムの代理店でもあった山久実業株式会社が倒産した。これに伴い地盤と一部人員を引き継ぎ「札幌営業所」を札幌市南2条東2丁目18に他社に先駆けて開設し直販体制を強化した。
※この「メルボルンオリンピック日本選手団が着用」の解説は、「スタンダード靴」の解説の一部です。
「メルボルンオリンピック日本選手団が着用」を含む「スタンダード靴」の記事については、「スタンダード靴」の概要を参照ください。
- メルボルンオリンピック日本選手団が着用のページへのリンク