メソアメリカ
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メソアメリカ(Mesoamerica)は、メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域を指し、パウル・キルヒホフの文化要素の分布研究により定義された。地理的には、北はメキシコのパヌコ川からシナロア川あたりまで、南はホンジュラスのモタグァ河口あたりからコスタリカのニコヤ湾あたりまでであるが、この境界線は歴史的に一定していたわけではない。
下記のように壮麗な神殿ピラミッドなどを現在も残すメソアメリカ文明が繁栄した地域であるメソアメリカでは、
- 定住農村村落の成立(紀元前2000年以後[1])
- オルメカ文明(メキシコ湾岸;紀元前1250頃-紀元前後)
- テオティワカン文明(メキシコ中央高原;紀元前後-7世紀頃)
- マヤ文明(メキシコ南東部、ユカタン半島、グアテマラなど;紀元前3世紀-16世紀)
- トルテカ文明(メキシコ中央高原;7世紀頃-12世紀頃)
- サポテカ文明(メキシコ・オアハカ地方;紀元前10世紀-16世紀)
- ミシュテカ文明(メキシコ・オアハカ地方;)
- タラスカ王国(メキシコ西部地域、ミチョアカン州など;)
- アステカ帝国(メキシコ中央高原;15世紀前半-1521年)
などが興亡した。
これらの文化はアジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸の文明との交流を経験せず、地理的に孤立した環境で発展した。また、南米のインカに代表されるアンデス文明との関係性もないと見られ、その意味で、古代中国、メソポタミア、アンデスとこのメソアメリカが「世界の四大一次文明」と呼ばれることもある[2]。製鉄技術を知らなかったものの、巨大な建造物や都市を造営できるほどの建築技術や天体観測による暦、独自の文字体系を有し、宗教においても独自な体系を成立させるなど、他大陸の文明とは際立った特徴を有していた。 神殿文化は紀元前二千年紀の末に起こり、それから約2500年の間、外部世界の影響や干渉を受けることなく自力で発展し続けた。ところが15世紀の末、コロンブスに率いられたスペイン人が突然侵入してきた[3]。スペイン人は政治的に住民を征服したばかりでなく、キリスト教化が図られる中で、神殿等は破壊、高度な技術・文化部分を担っていたと思われる旧来の王や貴族等の支配者、聖職者等の層が弾圧されたこと、スペイン人らによって持ち込まれた伝染病によって人口が激減したことにより、その内容が十分に理解・継受されることのないまま滅亡することとなった。
脚注
- ^ 佐藤徹「年表」 増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史I』所収 山川出版社 1999年
- ^ “青山和夫「マヤ文明 最新の研究成果」 NHK解説委員室”. NHK. 2023年8月2日閲覧。
- ^ 山田睦男「総説世界史のなかのラテン・アメリカ」、増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史I』山川出版社 1999年
参考文献
- 増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史I』新版世界各国史25 山川出版社 1999年 ISBN 4-634-41550-X
関連項目
メソアメリカ
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アステカ文明における造園は君主や上流階級向けの娯楽または職種であり、湖にあるチナンパという浮島が特徴的である。チナンパは基本的に農作用であったが、アステカ庭園も湖水を利用するためにその近辺の岩を掘削して造られた。その起源は紀元1千年紀のテオティワカンに遡るとされるが、大きく発展したのは15世紀になってからであった。アステカ庭園はテノチティトラン近郊の神聖なプライバシー空間と、テスココ湖の島における狩猟園という2種に大別される。そこには宮廷や浴場、劇場、墓地を含むこともあり、道の傍には灌漑用水路と平行した花とともにメキシコラクウショウ(英語版)やセコイアが並べられていた。 テスココのネサワルコヨトルによるチャプルテペクではテラスのある丘上の植林とランの育成が記録されているほか、テスコツィンコの別荘の草花には丘から数キロに及ぶ水路を通じて水が送られてきていた。モクテスマ1世はオアステペック(英語版) での造園に際して10キロもの柵とダム湖を造らせ、その周りに多様な熱帯の植物を置いた。アシャヤカトルは庭園を保有する者らに風光明媚な景観設計をするよう促し、彼が擁した遊園は様々な鳥類や爬虫類がいる動物園のようであったという。彼らによるこうした数々の庭園は侵攻してきたスペイン人らに美しい果樹園として驚かれ、そして記録されたが、コルテスらの制圧段階にて打ち壊されてしまった。チャプルテペクは征服者の狩猟園および屋敷として改造された後、現代では公園となっている。 インカ帝国の庭園に関する記録はあまり残されていないが、ウィリアム・H・プレスコット(英語版)によると、現在のペルー一帯で採掘された大量の金銀により、煌びやかなパルテール(英語版)と水路、池などが造られていた。ユカイ(英語版)にあった庭園でも現地の熱帯固有の草花が彩り、銀の水道と金の貯水池により水が提供されていたという。インカ人は後述するペルシア人のように技巧を凝らした灌漑用水路を山の湖などから引いており、その全長は650キロ以上、縦1.5メートル、横1メートルの規模であった。
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