ムスタファ・ケマルによる導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 07:26 UTC 版)
「トルコ語アルファベット」の記事における「ムスタファ・ケマルによる導入」の解説
トルコ革命によって専権を得たムスタファ・ケマルは、1923年からラテン文字化を念頭に文字改革の議論を行わせてきた。 ラテン文字化によって西欧に同化されることやコーランを読めるトルコ人が減少することを恐れるイスラム宗教人層からの反発も多くあったが、1928年5月20日にまずアラビア数字の採用がトルコ大国民議会で決定されると、同様にラテン文字が採用できるか調査するためにアルファベット委員会が設置された。委員会ではアラビア文字のラテン文字転写は原理的に否定され、トルコ語の発音を正確に表す文字表記について議論が行われた。ムスタファ・ケマルも時間が許せば委員会に参加していた。委員会は8月に新たな「トルコ文字」をケマルに提案した。 1928年8月9日にトプカプ宮殿で新アルファベットの採用がムスタファ・ケマルによって発表され、その後ケマル自身が、独立の英雄としての自身のカリスマを利用しながら、アナトリアを回って新アルファベットの宣伝を行った。この実際に使用した経験を踏まえて、ケマルは表記法のいくつかの変更を指示している。例えば接尾辞の連結時に付けられていたハイフンは廃止された。 ムスタファ・ケマルの指示による変更などを経て、現在の形のトルコ語アルファベットと表記法が完成し、1928年11月1日のトルコ大国民議会にて立法がなされた。新表記法への移行は急速に行われた。立法の2日後から新表記による文章の受け入れが義務付けられ、旧表記法で書かれた本を指導目的で学校で使用することは禁止された。旧表記の本の出版は1929年1月1日以降は禁止となり、1929年6月1日からは市民による政府とのやりとりは新表記で書くことが義務付けられた。また新表記を読み書きできないものは大国民議会の議員となれないと憲法12条に定められた。この急速な移行は、新表記を既成事実化することで大国民議会での論争をケマルが避けようとしたためと考えられる。 アルファベット法の成立後、Millet Mektepleri「国家の学校」が設立され、新アルファベットの習得と同時に国民の識字率向上が図られた。新聞や雑誌では19世紀から部分的にラテン文字が用いられていたが、立法後は新アルファベットの使用が義務付けられるとともに、その紙面で使用促進が図られた。しかし新アルファベットへの移行によって読者数は大きく落ち込み、規模の小さい新聞、雑誌では廃刊になるものもあった。軍でも新アルファベットの教育が行われ、徴兵された男性には授業が行われた。 これらの努力にかかわらず、旧来のアラビア文字も1940年代まで使われ続けた。法律によって禁止されているはずの公的空間でも使われ続け、移行は結果的に漸進的なものとなった。
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