ミルン親子と『プーさん』
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「クマのプーさん」の記事における「ミルン親子と『プーさん』」の解説
『クマのプーさん』の続編『プー横丁にたった家』を発表して間もなく、ミルンは「章のおわり」というエッセイの中で児童文学との訣別を宣言した。作品の大きな好評を得ていたにもかかわらずミルンがこの分野から離れる決意をしたのは、一つには新たな分野に挑戦し続けたいという冒険心であり、一つには息子クリストファーのプライバシーがマスコミによって侵害されはじめたことに危惧を抱いたためであった。ミルンの手を離れて以降も、「プー」シリーズは版を重ね続け、またそのキャラクター商品が多数作られるなどして、その人気はひとり歩きしていく。しかしこうして作品が脚光を浴び続ける一方で、「プーさん」は作者のミルンと息子クリストファーの以後の人生に暗い影を落とすことにもなった。 ミルンは児童文学との決別を宣言して以降、大人向けの戯曲や様々なジャンルの小説を手がけていくが、もともとは子供のためにほんの手すさびで書いた「プー」シリーズに匹敵するような成功を収めることは二度となく、その後半生は失意の連続であった。1939年に発表した自伝の中では、ミルンは次のように自嘲している。 「 見識ある批評家が指摘するように、私の最新の戯曲の主人公は、ああ神さま、『クリストファー・ロビンがおとなになっただけ』なのだ。つまり、子どものことを書くのをやめても、今度はわたしがかつて子どもだった人びとのことを書きつづけるのだという。わたしにとって子どもとはたいした妄想になったものだ ! 」 —A.A.ミルン(『今からでは遅すぎる』より) 1955年にミルンが死去すると、太平洋の両岸でいくつもの長い追悼文が発表されたが、「プーさん」以外の業績を中心にして彼を讃えたのは古巣の『パンチ』一誌のみであった。 さらに「プーさん」は、息子クリストファー・ミルンのその後の人生にも重荷となってのしかかった。少年時代のクリストファーは、「おやすみとお祈り」をクリストファーに歌わせて製作されたレコードがもとで級友にからかわれたりといったことはあったものの、依然として父への尊敬を失うことなく過ごしていた。しかしその後、兵役を経て、父と同じケンブリッジを卒業したクリストファーは、父と同じようにユーモア作家を目指して雑誌に持ち込んだりといったことをはじめたもののほとんど断られ、それから就いた家具買い付けの見習いもすぐに解雇されてしまうなど、実社会において苦労と挫折を重ねていくことになる。そうした経験を積むうちに、クリストファーはしだいに父に対する嫉妬や怒りを感じるようになっていった。 「 父は自分の努力で自分の道をきりひらいたが、それはその背後にだれかが従うことができる道ではなかった。だが、ほんとうに父ひとりの努力だったのだろうか? わたしもそのどこかに貢献したのではなかったか? 自分が持ちあわせている才能を使いたいと思ってくれる雇用主を求めてロンドン中をとぼとぼと歩きまわり、すっかり悲観的になっていたころ、わたしはこう思っていた。父は幼いわたしの肩にのぼり、父がいまある地位にまでのぼりつめたのだと。父がわたしの名誉を盗み、わたしには、父の息子であるという空っぽの名声だけをのこしてくれたのだと。 」 —クリストファー・ミルン(『クマのプーさんと魔法の森』より) 1948年、クリストファーは両親の反対を押し切って、ミルン夫妻と絶縁状態にあった親戚の娘と結婚する。そしてコッチド・ファームから200マイル離れたデヴォン州ダーツマスで書店の経営をはじめることによって自立を勝ち取ったが、そのためにミルンとクリストファーとはミルンの死まで絶縁状態が続いた。クリストファーが父との精神的な和解を果たしたのは、1974年に出版された『魔法にかけられた場所』にはじまる一連の自伝執筆を通してであった。後年のクリストファーは、父の記念碑の除幕式など、「プー」関連のさまざまな企画に参加している。彼はデヴォンで妻子と暮らしながら執筆活動を続け、1996年に75歳でその生涯の幕を閉じた。
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