ママス&パパスとは? わかりやすく解説

ママス&パパス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/12 15:52 UTC 版)

ママス&パパス
向かって左からミシェルキャス、デニー、ジョン
1967年エド・サリヴァン・ショーにて
基本情報
出身地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス[1]
ジャンル
活動期間 1965年 - 1971年
レーベル ダンヒル・レコード
公式サイト ママス&パパス 公式サイト
旧メンバー

ママス&パパス英語: The Mamas & the Papas)は、1960年代のアメリカで活躍したフォークグループ。

1998年ロックの殿堂入りを果たした。

略歴

1960年代初め、キャス・エリオットが所属していたフォークバンド「ビッグ・スリー」と、デニー・ドハーティが所属していたバンド「ハリファックス・スリー」のメンバーが合流し、「マグワンプス」が結成された。このバンドはアルバム発表も出来ないまま解散し(一部のメンバーはラヴィン・スプーンフルを結成)、エリオットはカリフォルニア州でジャズ・シンガーとしての活動を始め、ドハーティはジョンとミッシェルのフィリップス夫妻が所属するフォークバンド、ニュー・ジャーニー・メンに参加した。このニュー・ジャーニー・メンはやがてフォークロックへと姿勢を変換し、カリフォルニア州に活動の場を移した。そこで再びエリオットと合流し、1965年にママス&パパスを結成する。

1965年11月、『青空を探せGo Where You Wanna Go』でデビュー。同年12月、フィリップス夫妻によって書かれた「夢のカリフォルニア」を発表。同曲は全米4位の大ヒットとなった。3枚目のシングル「マンデー・マンデー」は1位にまで昇り、ファースト・アルバム『夢のカリフォルニア(原題If You Can Believe Your Eyes and Ears)』もロング・ヒット。

だが、絶頂の最中に、ミシェル・フィリップスとデニー・ドハーティの不倫が発覚し、1966年、ミシェルは夫のジョンに追い出される形でグループを脱退する。しかし、適当な代役が見つからなかったため、ミシェルは結局すぐに復帰して、ジョンと寄りを戻した。その後は、1966年発売のシングル「アイ・ソー・ハー・アゲイン」が全米5位、この曲を収録したセカンド・アルバム『The Mamas & The Papas』も全米4位まで昇った。

1967年2月発売のサード・アルバム『Deliver』が全米2位を記録。このアルバムからは「愛する君に(Dedicated to the One I love)」が全米全英共に2位と大ヒット、「クリーク・アリー」も全米最高5位の記録を収めた。同年6月16日から3日間開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。ジョンはフェスティバルのテーマソング的役割を果たす「花のサンフランシスコ」を書き上げ、「ジャーニーメン」時代の同僚のスコット・マッケンジーが歌ったシングルは全米4位を記録した[3]

同年、「朝日をもとめて」「悲しみを幸せに(原題Glad to Be Unhappy)」などがヒット。しかしジョンとミシェルの夫婦仲は再び亀裂が生じ始めていた。そして1968年になると、グループは完全に崩壊し、各メンバーはそれぞれ個人的な活動を始めた。契約上制作しなければならなかった最後のアルバム『People Like Us』は、メンバーが各自で収録した曲をまとめて発売された。

関係者のその後

キャス・エリオットはソロ活動で大成功を収めたが、1974年のツアーの最中に心臓発作により死去。1980年代に入り、1960年代に活躍したバンドが次々に再結成する中、ママス&パパスも女性陣のメンバーを変更した上で再結成し、1994年には初来日も果たしている。来日時のオリジナル・メンバーはデニーのみで、ジョンは腰を痛めてツアーから離れていた。代わりに前述のスコット・マッケンジーが参加していた。ジョンとミシェルの娘チャイナは、ブライアン・ウィルソンの2人娘カーニーとウェンディとの3人でウィルソン・フィリップスを結成、1990年1993年の活動期間に「ホールド・オン」などの大ヒットを放った。

2001年にジョン・フィリップスが心臓疾患により、2007年にはデニー・ドハーティが腎不全により死去した。ミシェル・フィリップスは、主に女優として活躍し、『デリンジャー』(1973年)や『バレンチノ』(1976年)などの代表作を持つ。

メンバー

脚注

外部リンク


ママス&パパス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 16:51 UTC 版)

キャス・エリオット」の記事における「ママス&パパス」の解説

ニュージャーニーメンが2人女性メンバー擁した時点で、新しい名前が必要となったドハーティによるとエリオットバンド新し名前についてインスピレーション得たドハーティ自身ウェブサイト書いている。 「 我々は全員がのんびりとくつろいでテレビを見ながらグループの名前を議論していました。ニュージャーニーメンは、我々が固執する名前ではありませんでしたジョンは「マジック・サークル」を推していました。しかし誰も、もっと良い名前を提案できないいました。我々はチャンネル変えて、そして、おや、ヘルズ・エンジェルストーク番組に…そして最初に聞いたものが、「えーと、まあ待ってくれホス一部人々は我々の女たち俗悪と言うが、我々は彼女たちを我々のママスと呼ぶ。」キャス跳び上がりましたイェー! 私はママなりたい。」そして、ミシェル続きました。「私たちは、ママスよ! 私たちは、ママスよ!」オーケー。私は、ジョン見ました。彼は私を見て続けましたパパス?」問題解決されました。乾杯! ママス&パパスに。そして何度も何度も祝杯をあげた後、キャスジョン酔いぶれました。 」 ドハーティはこの機会が彼とミシェル不倫関係始まり運命づけたと言い続けたエリオットドハーティ愛していたので、彼が不倫関係ついて話した事が気に入らなかった。ドハーティキャスがかつて彼にプロポーズしたと言ったが、彼はその時にひどく酔っていたので、返事をすることすらできなかった。 ユーモアのセンス楽観主義知られエリオットグループ内で最もカリスマ性のあるメンバーだと考える人多かった。彼女の暖かく独特な声は、彼らの成功における大きな要因であった。彼女はグループのビルボードヒット「夢のカリフォルニア 」、「マンデー・マンデー 」、「愛の言葉 」におけるボーカルによって、そして特に「私の小さな夢 」における独唱によって人々記憶刻み込まれている。「私の小さな夢 」は、共同作曲者の1人であったファビアン・アンドレ (Fabian Andre) の死を知った後の1968年レコーディングされた。ミッシェル・フィリップスはその数年前彼に会っていた。「私の小さな夢 」は1931年ナイトクラブ用のダンス曲として書かれた歌で、ナット・キング・コールなどのエリオット以前レコーディングアップテンポであったのに対し、彼女のバージョンバラードであったのが顕著な違いであった。 彼らは契約が切れる1971年リリース最後アルバムまでレコーディング続けた

※この「ママス&パパス」の解説は、「キャス・エリオット」の解説の一部です。
「ママス&パパス」を含む「キャス・エリオット」の記事については、「キャス・エリオット」の概要を参照ください。

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