ポール・リビアの真夜中の騎行
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「ポール・リビア」の記事における「ポール・リビアの真夜中の騎行」の解説
リビアが今日でもよく記憶されているのはレキシントン・コンコードの戦いの前夜、真夜中に伝令として走り回ったことである。有名なリビアの「真夜中の騎行」は1775年4月18日から19日にかけての夜に起こった。ジョセフ・ウォーレン博士の指示で、リビアとウィリアム・ドーズが馬に乗ってボストンからレキシントンに趨り、イギリス軍の動きをジョン・ハンコックとサミュエル・アダムズに警告するものであった。イギリス軍は表向きハンコックとアダムズを逮捕することにしてコンコードの武器庫を占領するために、ボストンからの行軍を開始していた。 ボストン茶会事件の後でボストン港を封鎖して以降、ボストンに駐在するイギリス軍(国王の正規軍)は常にリビアや他の愛国者によって監視され、イギリス軍が何かを企んでいるという噂が広がっていた。4月18日の夜に、イギリス軍がチャールズ川を越えてレキシントンへ向けて行軍を始めると、自由の息子達は直ぐに行動に移った。夜の11時頃、リビアはウォーレン博士の指示で、チャールズ川を越えて対岸のチャールズタウンに行き、そこからレキシントンに向けた騎行を始めることにした。一方ドーズは回り道をしてボストン・ネックを通り陸路レキシントンに向かうこととした。4月18日より前にリビアはオールドノースチャーチの寺男ロバート・ニューマンに、イギリス軍の動きの知らせが入ったら提灯を使ってチャールズタウンの植民地人に合図を送るよう指示していた。尖塔の提灯1個はイギリス軍が陸路を選んだこと、2つならば海路すなわちチャールズ川を横切ることを意味していた。このことはリビアとドーズの2人共が捕まえられた時にチャールズタウンに知らせが伝わるように用心されたものだった。リビアが騎行を始めた時に、ニューマンとジョン・プリング船長がオールドノースチャーチの尖塔に提灯を2つ吊し、イギリス軍がその夜実際にチャールズ川を渡ったことを知らせた。 リビアは、現在のサマービル、アーリントン、メドフォードを通り、通り道にいる愛国者達に警告を伝えた。リビアは後に伝えられるように「イギリス軍が来ている」(The British are coming!)と有名な台詞を叫んだはずがない。なぜならば、その任務は機密のものであり、田園地帯にはイギリス軍の斥候がいくらでもいたからである。また植民地の住人は当時自分達のことをイギリス人と考えていた。リビアの警告は、彼自身の証言によれば「正規兵がやってくる」(the regulars are coming out)だった。リビアは夜半頃にレキシントンに到着し、ドーズはその半時間後に着いた。サミュエル・アダムズとジョン・ハンコックはその夜をレキシントンのハンコック・クラーク・ハウスで過ごしており、知らせを聞いた後もかなり長い時間を今後の取るべき行動についての議論に費やした。一方リビアとドーズは民兵の武器を隠しているコンコードに騎行することに決めた。二人には偶々レキシントンに来ていた医者のサミュエル・プレスコットが加わった。 リビアとドーズ、プレスコットの3人はコンコードの近くリンカーンの路上に設けられた防塞でイギリス兵に呼び止められた。プレスコットは馬で障壁を飛び越えて森の中に逃げ込んだ。ドーズは馬を降りさせられた後でうまく逃げ延びたが、馬が無くなったので遠くには行けなかった。リビアは長く引き留められたうえに馬は没収された。プレスコットのみがなんとかコンコードに急を告げることができた。リビアは背中に銃を押しつけられたままレキシントンに引き返した。夜が明けて銃声が聞こえ始め、イギリス兵達はそちらに関心が移り、リビアは馬がないまま田園地帯に取り残されてしまった。リビアは歩いてレキシントンに戻り、丁度戦いが始まった時に出くわすことになった。3人の伝令が伝えた警告により、コンコードでは民兵がイギリス兵に反撃する用意ができており、ボストンにイギリス軍が引き返す途中でもゲリラ的な攻撃で追いかけることになった。 リビアの果たした役割は彼の存命中にはさほど話題にされることも無かった。1861年、リビアの死後40年以上も経ってからであるが、詩人のヘンリー・ワズワース・ロングフェローが「ポール・リビアの騎行」という詩を作った。この詩はアメリカ史の中でも最もよく知られるものとなり、学校に通う世代から記憶されることになった。最初の節は次の通りである。 Listen, my children, and you shall hear お聞きよ子供達。これは聞いとくべきだよ Of the midnight ride of Paul Revere, ポール・リビアの真夜中の騎行の話だ On the eighteenth of April, in Seventy-Five; 時は1775年、4月18日の夜 Hardly a man is now alive 今はもうだれも生きてはいないよ Who remembers that famous day and year その有名な日と年のことを憶えている人は On the midnight ride of Paul Revere ポール・リビアの真夜中の騎行 ロングフェローはその夜の出来事を自由に採集しており、特に3人の伝令によってなされた成果については、リビアに一番の功績者の地位を与えている。オールドノースチャーチの提灯のことは、実際に起こったようにリビアの「ため」であり、リビア「から」ではないとした。この結果、20世紀の歴史家達はアメリカ史におけるリビアの役割を誇大に扱うことになり、国民的神話になった。リビアの役割の重要さを強調する歴史家も多いが、デイビッド・ハケット・フィッシャーはその著書「ポール・リビアの騎行」(1995年)の中で、独立戦争初期のリビアの役割に関して学術的に研究した成果を著した。 今日、リビアが通った道筋の所々に「リビアの騎行」という標識が立っている。チャールズタウンのメインストリート、サマービルのブロードウェイとメイン・ストリート、メドフォードのハイ・ストリート、アーリントンの中心部、およびボストンのマサチューセッツ大通りなどである(アーリントン・ハイツの古い町並みはポール・リビア道路と呼ばれる)。
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