真夜中の騎行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/27 23:42 UTC 版)
「ウィリアム・ドーズ (アメリカ独立戦争)」の記事における「真夜中の騎行」の解説
1775年4月18日の夜、イギリス軍の部隊が田園部に行軍して行くことが明らかになった時に、ジョセフ・ウォーレン博士がボストンからレキシントンまで馬で向かう役割をドーズに宛てた。ドーズの任務はジョン・ハンコックとサミュエル・アダムズに逮捕される危険性があるのを警告することだった。ドーズはボストン・ネックを抜けてボストンから陸路を行く経路を選び、軍隊が町を封鎖する直前に出発した。 やはりウォーレン博士の下で動いていたポール・リビアが、別の騎手にチャールズ川を渡ったチャールズタウンで待機させ、オールドノースチャーチに掛けられた提灯の数でイギリス軍の進む経路を知らされるよう手配していた。この伝言が伝わったことを確認したリビアは船で川を漕ぎ渡り、自身も西への騎行を開始した。後に詩人のヘンリー・ワーズワース・ロングフェローが『ポール・リビアの騎行』という歴史的には不正確な詩を作った。この詩は全体にリビアに焦点を当てており、その夜に警告を伝えた多くの騎手たちの中でも立役者に仕立てている。 ドーズとリビアはレキシントンのハンコック・クラーク・ハウスに、夜半を過ぎたころにほぼ同時に到着した。実際にはリビアが少しばかり早く着いた。リビアは途中の町で民兵隊の士官達に話をするために立ち止まったりしていたが、リビアの採った道のほうが短く、また彼の馬が速かった。アダムズとハンコックに立ち去るよう警告した後、リビアとドーズはイギリス軍の目的がコンコードであった場合に備えてそこまで進むことにした。リビアは、ドーズが確保に貢献した大砲を含めた武器弾薬を植民地議会がそこに貯蔵したことを疑いも無く知っていた。その途中で2人は地元の若い医者であるサミュエル・プレスコットと出会い、プレスコットも2人に加わった。 レキシントンとコンコードの間の道で騎乗したイギリス軍士官の1隊が待っていた。彼らは既に軍隊に関する報せを持って西に向かう騎手を何人か逮捕しており、ドーズ、リビアおよびプレスコットにも停止するよう要求した。3人はそれぞれ異なる方向に馬で駆け、誰かが逃げ遂せることを期待した。ドーズがその子供達に語った話に拠れば、叫びながら1軒の家の庭に駆け込み、そこにいた士官2人をおびき寄せた。待ち伏せされることを恐れたその士官達は追跡を止めた。しかし、ドーズの馬がドーズを振り落としたのでレキシントンまで歩いて戻るしかなくなった。ドーズは後に、翌朝その庭に戻って見ると、ポケットから落としていた時計を見つけたと語った。その他のことでは、レキシントン・コンコードの戦いの間のドーズの行動は不明のままである。 ドーズとその仲間達の警告で、アメリカ独立戦争で最初の戦闘に町の民兵達が十分な勢力を集めることができ、植民地側の最初の勝利に結び付けられた。イギリス軍は破壊する為に行軍してきた武器の大半を見つけないまま、ボストンに引き返す間にゲリラ的銃火のためにかなりの損失を蒙った。
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