ペンタゴン経営の絶頂と終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:26 UTC 版)
「カネボウ (1887-2008)」の記事における「ペンタゴン経営の絶頂と終焉」の解説
社長に就任した伊藤は、武藤絲治のグレーター・カネボウ計画を引き継ぎ、労使運命共同体論=労使協調、ペンタゴン経営=多角化路線(繊維・化粧品・食品・薬品・住宅の5事業からなる)を推進した。特にペンタゴン経営で生まれた化粧品事業は、1970年代の高度経済成長期から1980年代の安定成長期にかけて、猛烈な営業攻勢と人気タレントを起用した宣伝広告で売り上げを伸ばし、業界首位の資生堂を追い上げていった。 しかし、この経営路線は後々のカネボウにとって不幸となった。労使協調路線は経営不振時に整理解雇の足かせとなり、代わりに自然退職と採用抑制によって人員整理が行われたが、抜本的なリストラには踏み切れなかった。一方のペンタゴン経営は化粧品以外はいずれも業界では中途半端な規模に留まる不採算事業となり、取り分け創業以来の業種である繊維事業は毎期損失を計上していた。しかし他事業が赤字でも、化粧品事業がそれを補って余りある高収益を上げていたため、社内から経営上の危機感と経営刷新を行う意欲を喪失させた。 1973年(昭和48年)に発生したオイルショックは、カネボウのみならず繊維業界全体に影響を与えた。カネボウはこの事態に対処するため人員の削減、工場の閉鎖・機能移転や不採算事業の撤退、子会社を吸収合併するなどの経営改革に取り組んだ。その結果1983年には8年ぶりの復配となった。1984年、伊藤は後継社長に岡本進を指名し会長に退いた。 新社長に就任した岡本の元、従来のペンタゴン経営に変わる21世紀への経営ビジョンとして情報システム、エレクトロニクス、機能性高分子、バイオテクノロジーを中心としたプレセンチュリー計画を打ち出し、1988年には創業110周年にあたる1997年までにグループ売上高1兆円、経常利益500億円を目標とした110計画がスタートした。折からのバブル景気によって売上が増加したが、新規事業に参入した結果、設備投資のための借入金が増加した。バブル崩壊期の1992年、伊藤は名誉会長に退き経営の第一線から退いた。 ちなみに伊藤はカネボウでの実績が評価され、1985年には日航ジャンボ機墜落事故で経営再建が急務だった日本航空の会長に抜擢される。しかし、労使対立が激しい日航では得意の労使協調路線は受け入れられず、結果を出せぬまま1年余りで政府により更迭された(この状況は山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』に詳説されているが、本作は、伊藤について脚色が多いといわれる)。
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