ペンシルベニア時代 (1794–1804)
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「ジョゼフ・プリーストリー」の記事における「ペンシルベニア時代 (1794–1804)」の解説
1794年、ニューヨークに到着。すぐさま様々な政治勢力がプリーストリーを引き込もうと寄ってきた。自分が新たな国で政治不和の原因となることを嫌い、それらの誘いを断わった。夫妻は新居をペンシルベニア州ノーサンバーランドに定め、そこに向かう途中でフィラデルフィアに立ち寄った。そこで一連の説教を行い、フィラデルフィア・ファースト・ユニテリアン教会 (First Unitarian Church of Philadelphia) の創設を助けている。ペンシルベニア大学で化学を教える機会を得て、夫妻はその近郊に家を建て始めた。 アメリカでは政治的論争を起こさないようにしようというプリーストリーの試みは失敗した。1795年、ウィリアム・コベット (William Cobbett) が Observations on the Emigration of Dr. Joseph Priestley と題した小冊子を出版。プリーストリーはイギリスで反逆罪に問われているとして、彼の科学的信用を傷つけようとした。さらにコベットがプリーストリーに送られた過激な出版人ジョン・ストーン (John Hurford Stone) とリベラル作家ヘレン・ウィリアムズ (Helen Maria Williams) の手紙(両者とも革命後のフランスに住んでいたことがある)を手に入れたことで、プリーストリーの政治的生命はいっそう悪い展開を見せた。コベットは自身の新聞にそれらの手紙を掲載し、プリーストリーが友人らと革命を扇動していたと断言した。プリーストリーは防衛のために反論を出版せざるを得なくなった。 家族にも問題が起きた。息子のヘンリーがマラリアと思われる病気で1795年に死去した。そして、それにショックを受けた妻メアリーも病に倒れ、1796年に死去した。妻の死後、プリーストリーは友人への手紙に「全く混乱していて、何も手に付かない。家ではいつも妻がそばに座って読み書きしたり、彼女に読み聞かせたりしていた。だからどこにいても彼女を恋しく思う」と書いている。1800年にもペンシルベニアの新聞がプリーストリーを「フランスの主義」に酔っていると書きたて、プリーストリーと息子がそれを精力的に否定した。 常に重視していた教育関係のプロジェクトは続けていて、"Northumberland Academy" の創設を助け、自身の蔵書を寄贈している。トーマス・ジェファーソンとの手紙のやり取りで大学の適切な構成について意見を伝え、その助言がバージニア大学創設の際に役立てられた。ジェファーソンとは親密になり、General History of the Christian Church を書き上げた際には献辞にジェファーソンの名を挙げ、「私は今やっと権力を全く恐れずにいることができる。好意的な政府の下で生きるのはこれが初めてだ」と記した。 プリーストリーはアメリカ哲学協会の支援の下で科学研究を続けようとした。ヨーロッパの最新事情は中々入ってこなかったため、科学の最新状況がわからず、科学の最前線からは退いた形となった。フロギストン説を擁護する内容の出版が多かったが、自然発生説や夢に関する独自の成果もあげた。プリーストリーの科学的成果は減少したが、アメリカでは彼の存在そのものが化学への興味を刺激した。 1801年、健康状態が悪化し執筆や実験を続けられなくなった。1804年2月6日の朝、死去。ノーサンバーランドのリバービュー共同墓地に埋葬された。墓碑銘には次のように刻まれている。 Return unto thy rest, O my soul, for the Lord hath dealt bountifully with thee. I will lay me down in peace and sleep till I awake in the morning of the resurrection.
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